壬申の乱、大和方面の戦の顛末と三柱の神のお告げについて。


日本書紀「天武天皇(8)」

 一方、大和方面の将軍大伴吹負が奈良に向かって稗田に至った日、ある人が言うには河内より大軍が来ているとのことであった。
 すぐに坂本臣財、長尾直眞墨、倉垣直麻呂、民直小鮪、谷直根麻呂を遣わして三百の兵を率いさせ、龍田で防戦させた。
 また佐味君少麻呂に数百人を率いさせて逢坂に駐屯させ、鴨君蝦夷に数百人を率いさせて石手の道を守らせた。

 この日、坂本臣財らは平石野に泊まった。
 ときに近江の軍が高安城にいると聞いて城へ登った。
 そこで近江軍は財たちが来ることを知って税倉をことごとく焼いて皆散り散りで逃げた。
 財たちは城の中に泊まった。
 明け方に西のほうを見れば、大津、丹比の両の道より大軍勢が来ており、軍旗が見えた。
 ある人曰く、近江の将、壱伎史韓国の軍勢とのことである。
 財たちは高安城から降りて衛我河を渡り、韓国と河の西で戦った。
 しかし、財たちの軍は数が少なく、防ぐことはかなわなかった。
 これより前に紀臣大音を遣わして懼坂の道を守らせていた。
 財たちは懼坂まで退却し、大音の軍営に入った。
 このとき、河内国司守の来目臣塩籠は不破宮(大海人皇子方)に帰参する心づもりがあり、軍勢を集めていた。
 ここに韓国が来て、密かにその謀を聞いて塩籠を殺そうとした。塩籠は謀が漏れたことを知って自死した。

 一日が経ち、近江方の大軍が諸道に集まってきた。
 そこで、戦うことができず吹負の軍は退却した。
 この日、将軍吹負は近江軍に敗北し、わずか一、二の騎兵を連れて逃げていた。
 墨坂に至り、たまたま菟の軍に出会った。
 さらに戻って金綱井に駐屯して散り散りになった兵たちを呼び戻した。
 そして、近江軍が逢坂の道より進軍してきたと聞いて将軍は軍を率いて西へ発った。
 当麻に至り、壱岐史韓国の軍と葦池のほとりで戦った。
 このとき、勇士来目という者がおり、刀を抜いて馬を駆けさせ、敵の軍中に突入した。
 騎兵たちはそれに続いた。
 すると近江の軍勢はことごとく逃げていき、来目たちはそれを追いかけて散々に斬った。
 ここで将軍吹負は「兵を起こした元々の意味は百姓を殺すことではない、元凶を仕留めることである。むやみやたらに殺すな」と自らの軍に号令した。
 韓国は軍を離れて一人で逃げた。
 吹負はこれを遠くから見て、来目に射させた。
 しかし矢は当たらず、韓国はついに逃げ去った。

 吹負が本営地に戻ると、そこには東軍(大海人皇子方)の軍勢が多く集まっていた。
 そこで吹負は軍を分けてそれぞれ上中下の道に配置した。
 将軍吹負は中道に駐屯した。ここに近江軍の将犬養連五十君が中道より進軍し、村屋に留まった。
 別将の廬井造鯨を遣わして二百の精兵でもって吹負の陣を襲わせた。
 このとき、周りの兵が少なく、これを防ぐことができなかった。
 このとき、大井寺の奴で名を徳麻呂という者ら五人が従軍していた。
 徳麻呂らは先鋒となり進み出て矢を射かけた。
 鯨の軍は進むことができなかった。
 この日は三輪君高市麻呂と置始連菟が上道で、箸墓陵の辺りで戦っていた。
 共に近江軍を破って勝利をおさめ、鯨の軍の退路を断った。
 鯨の軍は瓦解してことごとく逃げた。鯨は白馬に乗って逃げた。
 しかし、馬が泥にはまって進むことができなくなった。
 そこで将軍吹負は甲斐の勇者に「かの白馬に乗った者は廬井鯨である。急いで追いかけて射よ」と言った。
 甲斐の勇者は馬を駆って追いかけ、鯨に追いつこうという頃、鯨は急いで馬に鞭打った。
 馬はぬかるみを抜け出し、そのまま馳せて逃げることができた。
 将軍吹負は本営地に帰還した。
 以後、近江の軍勢が来ることはなかった。

 これより前、金綱井に駐屯しているとき、高市郡の大領、高市縣主許梅が急に口がきけなくなり、その三日後に神がかりして言うことには、
「我は高市社にいる神である。名は事代主神。また、牟狭社にいる神で名を生霊神という」
 とのことである。
 そして、神の言葉として
「神武天皇の陵に馬と種々の兵器を奉れ」
 と言い、更に、
「私は皇御孫命(大海人皇子)の前後に立って不破までお送り申し上げて帰った。今また官軍の中に立って守護している」

 そして、
「西の道より軍勢がまさに来ようとしている。用心せよ」
 そう言った後、正気に戻った。


挿絵:4点
文章:水月


日本書紀「天武天皇(8)」登場人物紹介

〈大伴吹負〉
大海人皇子方の将軍。大和方面担当。

〈坂本財〉
大海人皇子方の将。

〈壱伎韓国・廬井鯨〉
近江方の将。