吉野方(大海人皇子方)は連戦連勝し、その勢いのまま近江の都へ迫る。逃げる場所を失った大友皇子は山前の地へ戻り…


日本書紀「天武天皇(7)」

7日、村国連男依らは近江軍と息長の横河で戦ってこれを破り、その将の境部連薬を斬った。 9日、男依らは近江方の将の秦友足を鳥籠山にて討ち取った。この日、東道将軍の紀臣安閉麻呂らは倭京の将軍の大伴吹負が近江軍に敗れたことを聞いてただちに軍勢を分けて置始連菟に千余騎を率いさせて急いで倭京へ遣わした。

13日、男依らは安河のほとりで敵を大いに破り、社戸臣大口と土師連千島を討ち取った。

17日、栗太の軍を追撃した。

22日、男依は瀬田に到着した。
そのとき大友皇子と近江の群臣たちは橋の西に陣を敷いた。
その大軍は後ろの方が見えないほどで、軍旗は野を隠し、軍勢が立てる砂埃は天に届くほどであった。
鉦鼓の声は数十里に響き渡り、ずらっと並んだ弓から放たれた矢は雨のように降り注ぐ。
将の智尊は精兵を率いて先鋒として立ち塞がった。
そして橋の中ほどを杖三本分ほどの幅に切断し、一枚の長い板を渡してあった。
たとえ橋板を踏んで渡る者があっても、すぐに板を引いて落としてしまおうというのである。
このせいで吉野方は橋を渡って襲いかかることができない。

しかし、ここにひとりの勇士がいた。名を大分君稚臣という。
彼はすぐに長矛を捨て、鎧を重ね着して刀を抜き、急いで板を踏んで橋を渡った。
そしてすぐに板に取り付けた綱を断ち切って矢を受けながら陣へと入った。
近江勢はことごとく乱れて散り散りになって逃げるのを止めることができない。
将軍の智尊は刀を抜いて退く者を斬った。
しかし、逃げる兵を止めることはできなかった。
そして吉野勢はついに智尊を橋のほとりで斬った。
大友皇子と左右大臣らは命からがら身ひとつで逃げた。
男依らは粟津岡の下に駐屯した。
この日、羽田公矢国と出雲臣狛は連合して、三尾城を攻め落とした。

23日、男依らは近江方の将である犬養連五十君と谷直塩手を粟津市で斬った。
これにより、大友皇子は逃げ場を失った。引き返して山前の地へ隠れ、そこで自ら首を吊った。
このとき、左右大臣や群臣らは皆散り散りに逃げてしまっており、ただ物部連麻呂と舎人が一、二人付き従っているだけであった。


挿絵:あんこ
文章:水月


日本書紀「天武天皇(7)」登場人物紹介

〈村国連男依〉
吉野方(大海人皇子方)の将。緒戦で軍功をあげる。

〈大友皇子〉
天智天皇の皇子。父の後を継ぐが壬申の乱で大海人皇子に敗れる。