とうとう戦闘状態に突入した大海人軍。軍勢を分割し、友軍の識別のために赤色の目印を付けさせるなど、近江朝廷軍との戦闘に備えた。その頃、近江朝廷軍の方でも動きがあり……


日本書紀「天武天皇(6)」

 七月二日に、大海人皇子は、紀臣阿閉麻呂きのおみあへまろ多臣品治おおのおみほむぢ三輪君子首みわのきみこびと置始連菟おきそめのむらじうさぎらを派遣して、数万の軍勢を率いさせ、伊勢国の大山から倭に向かわせた。
 また、村国連男依むらくにのむらじおより書首根麻呂ふみのおびとねまろ和珥部臣君手わにべのおみきみて胆香瓦臣安倍いかごのおみあへを派遣して、数万の軍勢を率いさせ、不破より出発させ、即座に近江国に入らせた。
 その軍勢が、近江朝廷軍と判別できなくなることを恐れて、衣服の上に赤色の目印を付けさせた。

 そうした後に、多臣品治に命じて、三千の軍勢を率いさせ、莿萩野たらのに駐屯させた。
 また、田中臣足麻呂たなかのおみたりまろを派遣して、要路である倉歴道くらふのみちを防衛させた。

 この頃、近江朝廷は、山部王やまべのおおきみ蘇賀臣果安そがのおみはたやす巨勢臣比等こせのおみひとに命じて、数万の軍勢を率いさせて、不破を襲撃するために犬上川の河畔から出立した。
 しかし、山部王が蘇賀臣果安・巨勢臣比等に殺されてしまった。
 このことによる風紀の乱れによって、進軍が滞り、そのために蘇賀臣果安は犬上から戻り、首を刺して自殺してしまった。

 この時、近江朝廷の将軍、羽田公矢国はたのきみやくにや、その子の大人うしらが、自分たちの一族を率いて投降したため、斧とまさかりを与えて、大海人皇子の軍の将軍に任命し、近江国の北方にある越に入らせた。
 これに前後して、近江朝廷は精鋭の兵士を派遣して、即座に玉倉部邑たまくらべのむらを急襲した。よって、大海人皇子の軍は、出雲臣狛いづものおみこまを派遣して、追撃させた。


挿絵:4点
文章:紀貫過


日本書紀「天武天皇(6)」登場人物紹介

〈大海人皇子〉
天智天皇の同母弟。天智天皇の死後、その子である大友皇子の主導する近江朝廷と対立を深め、とうとう戦闘状態に突入する。