聖武天皇presents二人の僧侶の知恵比べ!唐に渡って勉学に励んだ聡明な道慈VS虚空蔵菩薩のお導きで知恵を得た聡明な神叡。虚空蔵菩薩のお導きで突如知恵者になったという神叡の噂を聞きつけた聖武天皇は神叡を召して道慈と対面させると……!?


今は昔、聖武天皇の御代に道慈、神叡という二人の僧がいた。
道慈は大和国添下郡の人である。
俗姓は額田氏。
性格も知識も大変広く、仏法の道を深く理解し伝えようとして、大宝元年に遣唐使の粟田道麻呂に従って震旦に渡った。
〇〇法師を師として無相の法文を学び極めて、震旦にして〇〇〇〇〇〇来たれり。
聖武天皇はこれを貴びて〇〇、この人に知識で叶う人はいなかった。

一方法相宗の僧に神叡という人がいた。
〇〇国〇〇郡の人である。
俗姓は〇〇氏。
大変聡明ではあるが、仏法を学ぶことは少なく道慈とは比べものにならなかった。
しかし、神叡は心の中では知恵を得たいと思っていた。

ところで、大和国吉野郡の現光寺の塔の柄杓形ひさくがたには、虚空蔵菩薩が鋳してある。
神叡はそれに紐をつけて引き、「虚空蔵菩薩さま、何卒私に知恵をお与えください」と祈った。
すると、数日経って神叡の夢に尊い人が現れ、「この国の添下郡にある観世音寺という寺の塔の心柱の中に『大乗法苑林章』そいう七巻の書が収めてある。それをとって学ぶが良い」と告げた。
神叡は夢から覚めるとその寺に行き、塔の心柱を開いてみた。
すると七巻の書がある。
それをとって学びその結果非常に知恵のある人となった。

そこで天皇はこのことをお聞きになり、直ちに神叡を召し、宮中で道慈と学問を競わせてご覧になった。
道慈はもとより学殖の広い人である上に、震旦に渡り、優れた師について十六年学問して来た者である。
神叡の方はそれまで広い学殖を持ったものという評判も聞かなかったので、天皇は神叡が知恵のある人となったとお聞きになっても「大したことはあるまい」と思っておられた。
しかし道慈が論議をしたのに対し、神叡が答えるその様は誠に迦せん延の如くである。
このような具合で論議百条を互いに問答したが、神叡の知恵の方が明らかに優っていたので、天皇はひどく感心なさって、この二人に帰依なされ、ともに封戸をお与えになり、道慈を大安寺に住まわせ三論を学ばせ、神叡を元興寺に住まわせて法相を学ばせた。

かの道慈の肖像は大安寺の金堂の東、登廊の第二門に、諸羅漢とともに書き加えられてある。
かの神叡が見つけた七巻の書は、現在まで伝わって、法相宗を規範とする書となっている。
思えば虚空蔵菩薩の御利益は計り知れないものがある。
それによって神叡も知恵を得たのだと人々は話し合ったとこう語り伝えているということだ。


挿絵:あめ
文章:木春


今昔物語集「道慈唐に亘りて三論を伝へて帰り来たり神叡朝に在りて試むる語第五」登場人物紹介

<道慈>
三論宗の僧侶。遣唐使船で唐に渡り学んで帰ってきた。

<神叡>
法相宗の僧侶。こちらは新羅に渡ったことがある。唐の人だったのではないかという説もある。

<聖武天皇>
言わずと知れた第45代天皇。奈良のでっかい盧舎那大仏の人。