大海人皇子の東国入りの報せを聞き、動揺する近江朝。
大友皇子は各地へ使者を派遣し、先手を打とうとするが……


日本書紀「天武天皇(4)」
この頃、近江朝(おうみのみかど)に、大皇弟(もうけのきみ=大海人皇子)東国入りの報がもたらされ、群臣はみな驚き、京(みやこ)中が騒然となった。
 或る者は逃げて東国に入り、大海人皇子方に帰順しようとし、或る者は退いて山や沢に隠れようとした。
 これに対して大友皇子(おおとものみこ)は群臣に相談し、「どう計ればよいだろう」と仰せられた。
 一人の臣下が進み出て、「策略が遅れれば、我が方が後れをとります。 ここは急ぎ精鋭の騎兵を集め、追撃すべきです」と上申した。しかし皇子は、これに従うことはなかった。
 結果、韋那公磐鍬(いなのきみいわすき)・書直薬(ふみのあたいくすり)・忍坂直大摩侶(おしさかのあたいおおまろ)の三人を東国へ、穂積臣百足(ほづみのおみももたり)とその弟・五百枝(いほえ)に加え物部首日向(もののべのおびとひむか)の三人を倭京(やまとのみやこ=飛鳥京)、佐伯連男(さえきのむらじおとこ)を筑紫、樟使主磐手(くすのおみいわて)を吉備へと、兵力の動員を計ってそれぞれの派遣を命じられた。

 そうして男と磐手に語り、「筑紫大宰(つくしのおおみこともち=太宰府の長官)・栗隈王(くるくまのおおきみ)と吉備国守(きびのくにのかみ)・当麻公広島(たぎまのきみひろしま)の二人は、元は大海人皇子に汲みしていた者たち。 我々を裏切ることがあるやも知れぬ。 そのような素振りを見せたら、そなたらの手で始末せよ」と仰せられた。
斯くして磐手は吉備国へ赴き、広島に符(ふ=上級から下級の官吏へ出す文書)を授ける日、彼を欺いて帯刀を解かせた。すると磐手はすぐさま刀を抜き、広島を斬り殺した。
一方の男は、筑紫に到着した。
 その時、栗隈王は符を受け、「筑紫国は、元より周辺の外敵からの難に備えている要衝。 城壁を高く築き、堀を深くし、海に面して守りを固めているのは、国内の賊に対処するためではございませぬ。 もし今ここで謹んでご命令を受け、兵を動かそうものなら、この国の守備はもぬけの殻となりますぞ。 その隙に予期せぬ火急の事が起きでもすれば、すぐにでも国は傾きましょう。 そのような事態になった後に百回私めを殺したとて、何の得にもなりますまい。 決して天皇(すめらみこと)のご威徳に背くものではありませぬ。 兵を起こさないのは、それが理由であります」と答えた。
 この時、栗隈王の二人の子・三野王(みののおおきみ)と武家王(たけいえのおおきみ)が剣を帯びて栗隈王の側に立ち、退こうとしなかった。
 それで男は剣をしっかりと握りしめ、前に進み出ようとしたが、返り討ちにされることを恐れた。
 結果、男は事を全うすること叶わず、空しく近江に踵を返す事となった。
また、東国に遣わされた駅使(はゆまつかい=駅馬の利用を許可された公的な使者)・磐鍬らは不破に到ったが、山中に大海人皇子方の伏兵が潜んでいないかと、磐鍬はひとり慎重にゆっくりと馬を進めていた。
 するとその時、山中から伏兵が現れ、先に進んでいた薬らの背後を塞いだ。
 磐鍬はこれを見て、薬らが捕らわれたことを知り、引き返して逃走し、辛うじて難を免れることができた。

 ちょうどその頃、大伴連馬来田(おおとものむらじまくた)とその弟・吹負(ふけい)の二人は、近江方の風向きがよくないことを知り、病と称して倭(やまと)の家に退いた。
 そうして、皇位を継がれるのは、間違いなく吉野に御わす大海人皇子であろうと読んでいた。
 そこで、まず兄の馬来田が大海人皇子に帰順した。
 ただ弟の吹負だけが倭に留まり、一気に武功を立ててこの困難を収めてみせようと思い、一人、二人の同族の者と諸々の豪傑を呼び集め、ようやく数十人の味方を得たのだった。


挿絵:あめ
文章:やすみ


日本書紀「天武天皇(4)」登場人物紹介

<大皇弟(もうけのきみ)>
大海人皇子(おおあまのみこ)のことを指す。天智天皇(てんじてんのう)の弟で、後の天武天皇(てんむてんのう)。

<大友皇子(おおとものみこ)>
天智天皇の第一皇子。壬申の乱において、叔父の大海人皇子と相対する。