天智天皇の命により、大友皇子を中心とした体制が発足され、渡来した百済の亡命貴族は揃って官位を授かった。
夏四月には、天智天皇が皇太子の時に作られた漏刻が、初めて可動した。


日本書紀「天智天皇(8)」

即位十年(西暦672年)春正月二日、大錦上・蘇我赤兄(そがのあかえ)と大錦下・巨勢人(こせのひと)が宮殿の前に進み出て、賀正の事を奏上した。
正月五日、大錦上・中臣金(なかとみのかね)が神事を勅(みことのり)として述べた。
この日、大友皇子(おおとものみこ)を太政大臣に、蘇我赤兄を左大臣に、中臣金を右大臣に、蘇我果安(そがのはたやす)・巨勢人・紀大人(きのうし)を御史大夫とした。
―御史大夫というのは今(日本書紀編纂時)における大納言であろうか。
正月六日、東宮太皇弟(ひつぎのみこ※1)が勅して、―或る本によると、大友皇子が勅したという―冠位・法度のことを施行された。天下に大赦を行った。
―法度・冠位の名は、新しい律令に詳しく載っている。
正月九日、高麗が上部(じょうほう※2)大相(だいそう/テサン※3)・可婁(カル)らを遣わして貢物を献上した。
正月十三日、百済の鎮将・劉仁願(りゅうじんがん)が李守真(りしゅしん)らを遣わし、上表文を奉じた。
この月、大錦下を佐平(さへい/サピョン※4)・余自信(よじしん)、沙宅紹明(さたくしょうみょう)―法官大輔(のりのつかさのおおきすけ)―に、小錦下を鬼室集斯に授けた―学職頭(ふみのつかさのかみ)―。
大山下を達率(だちそち※5)・谷那晋首(こくなしんす)―兵法に精通―、木素貴子(もくそきし)―兵法に精通―、憶礼福留(おくらいふくる)―兵法に精通―、答㶱春初(とうたいしゅんし)―兵法に精通―、㶱日比子賛波羅金羅金須(ほんにちひしさんはらこむらこむす)―薬に精通―、鬼室集信(きしつしゅうしん)―薬に精通―に授ける。
小山上を達率・徳頂上(とくちょうじょう)―薬に精通―、吉大尚(きちだいしょう)―薬に精通―、許率母(こそちも)―五経に精通―、角福牟(ろくふくむ)―陰陽に精通―に授けた。
小山下を残りの達率ら五十余名に授けた。
童謠(わざうた)には、
橘は 己が枝々 生れれども 玉に貫く時 同じ緒を貫(ぬく)く※6
と謡われた。
二月二十三日、百済が台久用善(だいくようぜん)らを遣わし朝貢した。
三月三日、黃書造本実(きふみのみやつこほんじつ)が水臬(みずはかり※7)を献上した。
三月十七日、常陸国から中臣部若子(なかたみべのわくご)が献上された。身長は一尺六寸(=唐大尺で約48cm)、斉明二年(656年)生まれで十六歳である。
夏四月二十五日、漏刻(ろうこく※8)を新しい台に置くと、初めて時を刻みはじめた。鐘や鼓を打ち鳴らし、初めて漏刻を用いた。
この漏剋は、天智天皇が皇太子の時に、ご自身で作られたものであると、云々。

この月、筑紫から「八つの足を持つ鹿が生まれ、すぐに死んだ」と報告があった。
五月五日、天皇が西の小殿(こあんどの)におこしになり、皇太子や群臣が宴に侍(はべ)り、ここに再び田舞(たまい)を奏した。
六月四日、百済の三部の使者が要請した軍事を勅された。
六月十五日、百済が羿眞子(げいしんし)らを遣わし朝貢した。
この月、栗隈王(くるくまのおおきみ)を筑紫帥(つくしのかみ)とした。新羅が使者を遣わし朝貢した。それとは別に、水牛一頭と山鶏一羽を献上した。
秋七月十一日、唐の李守真ら、百済の使者らが揃って帰路についた。
八月三日、高麗の上部大相・可婁らが帰路についた。
八月十八日、蝦夷(えみし)を饗応なさった。

※1東宮太皇弟:皇位継承者。この時は大海人皇子。
※2上部:高句麗の中心勢力である五部族のうちの一つ。
※3大相:高句麗の官位。
※4左平:百済の官位。
※5達率:百済の官位。
※6橘は 己が枝々 生れれども 玉に貫く時 同じ緒を貫(ぬく)く:常世からきた橘の実は、各々異なった枝に成るが、薬玉の飾りにする時は同じ緒に通す…の意味か。渡来した百済亡命貴族が、出自・職能に関係なく、大和朝廷から然るべき官位を揃って授かった事を歌ったもの。賛美とする説、揶揄とする説の両方ある。
※7水臬:水準器
※8漏刻:水時計


挿絵:雷万郎
文章:やすみ


日本書紀「天智天皇(8)」登場人物紹介

<大友皇子>
天智天皇の第一皇子。
<蘇我赤兄>
蘇我馬子の孫で、蘇我倉麻呂(雄当)の子。
<中臣金>
中臣(藤原)鎌足の従兄弟。鎌足亡き後、中臣氏の中心人物として出世する。
<蘇我果安>
蘇我馬子の孫で、蘇我倉麻呂(雄当)または蘇我善徳の子。