建礼門院は、自らの人生を振り返り、死後に赴く六道すべてを体験したと語る。
「出家の常です、その姿で何のさしつかえがございましょう。早くご対面なさって、お帰りになるようになさいませ」と申したので、女院は御庵室に入った。「一度念仏を唱えては、浄土からお迎えの阿弥陀如来の光明が窓にさすのを期待し、十度念仏を唱えては、仏菩薩方のこの粗末な草庵への来迎を待っていたのに、法皇がおいでになるとは本当に思いも寄りませんでした」といって、泣く泣くお目にかかった。
法皇はこの様子を見て、「非想天では八万劫の寿命があるというが、それでもなお必ず死ぬという悲しみにあい、欲界の六天でも寿命が長く楽しいが、それでもまだ五衰の悲しみを免れることはできない。帝釈天の宮殿である善見城の長寿・歓楽も、中間禅の梵天王の高台の宮殿の楽しみも、また夢の中での幸福、幻の中の楽しみであって、全くいつ果てるともなく流転している。車の輪が回っているようなものだ。天人にあるという五衰の悲しみは、人間界にもあったものだ」と言った。
「それにしても誰かここへ訪ねているだろうか。何か起こるにつけ、さぞかし昔を思い出しておられるでしょう」と尋ねると、「どちらから訪ねて来ることもありません。隆房や信隆の北の方から、とぎれとぎれに申して寄越すことはございます。昔は、あの人々の世話を受けて生活しようとは、まったく思いもよりませんでした」といって、涙を流すと、お付きの女房たちも、みな涙を流した。
女院は御涙をこらえて、「こういう悲しい身になることは、一時の嘆きであることは申すまでもありませんが、後生の成仏のためには、喜びと思われるのです。こうして仏に仕えて、たちどころに釈迦の死後の弟子の一人となり、畏れ多くも阿弥陀の誓願に頼って、五障三従の苦しみをのがれ、昼三時・夜三時の勤行に六根の煩悩を清め、一途に九品の浄土に往生することを願っています。ひたすら平氏一門の後生安楽を祈り、常に阿弥陀・観音・勢至の三尊の来迎を期待しています。いつになっても忘れられないのは先帝の御面影で、忘れようとしても忘れられません、悲しみを忍ぼうとしても忍ぶことができません。ただ親子の情愛の道ほど悲しいことはありません。ですからその先帝の後世安楽のために、朝夕のお勤めを怠ることはありません。これも私の仏道に入るためによい善知識と思っております」と言った。
法皇は、「この国は粟粒ほどの辺鄙な小国だが、畏れ多くも前世の十善の行いを積んだそのおかげで、天子となり、身分相応に、一つとして心のままにならぬということはない。とりわけ仏法が流布している世に生れて、仏道修行の志をもっているので、後世に善所に生まれることは疑いないと思う。人間界のはかなく空しいことは常のならいで、今更驚くことはないが、女院のご様子を拝見すると、あまりに悲しくなんともしようのない気がします」というと、
女院が重ねて、「私は平相国の娘として、天子の国母となり、天下はすべて思いのままでございました。年賀の礼を行う春の始めから、さまざまな色の衣に着替える四月・十月の衣替え、仏名会の行われる年末まで、一年中摂政関白以下の大臣・公卿に大切にかしずかれたありさまは、六欲天・四禅天の天上で、八万の天部に取り囲まれかしずかれているように、文武百官がすべて敬い仰がぬ者はございませんでした。清涼殿・紫宸殿の床の上、玉の簾の中で大切にされ、春は南殿の左近の桜に心をとめて日を暮し、九夏三伏の暑い日は、泉の水を汲んで心を慰め、秋は雲の上の月をひとり見ることを許されず、月見の遊宴などに夜を過し、冬の白雪の降る寒い夜は、衣を重ねて暖かにする。長生不老の仙術を会得したいと願い、蓬莱の不死の薬を尋ねても、ただ命の久しくあることばかりを思っておりました。毎日毎夜、楽しみ栄えた生活を送ったことは、天上の果報もこれ以上ではあるまいと思われたのでした。それなのに、寿永の秋の初め、木曾義仲とかいう者を恐れて、一門の人々が住みなれた都を空のかなたに見やって、ゆかりのある故郷の福原を焼いて、焼野の原にし、昔は名前ばかり聞いていた須磨から明石への海岸伝いに行くのは、なんとも哀れに思われました。その後、昼は広々とした海の波を分けて袖を濡らし、夜は洲崎の千鳥の鳴き声を聞きながら泣き明かし、浦々島々を通り、趣のある所を見たが、故郷のことは忘れなかった。こうして落ち着く所もなかったのは、天人の五衰、生者必滅の悲しみのようなものだと思われたのでした。人間界のことは、愛別離苦・怨憎会苦の苦しみなど、いずれもわが身に思い知らされたのです。四苦・八苦、一つとして残るものはありません。ところで筑前国太宰府という所で、緒方維義とかいう者に九州の内も追い出され、山や野は広いけれども、立ち寄って休むべき所もない。その年の秋の末にもなったので、昔は内裏の御殿の上で見た月を、今は遥かに遠い海の上で眺めて、日を送っておりましたうちに、十月の頃、清経中将が、『都の内を源氏のために攻め落され、九州を維義のために追い出される。網にかかった魚のようなものだ。どこへ行ったらのがれられようか。生きながらえることのできる身でもない』といって、海に沈みましたのが、悲しいことの始めでございました。波の上で日を暮し、船の内で夜を明かし、国々からの献上品もなかったので、御食事をととのえる人もない。たまたま御食事は差し上げようとしても、水がないので差し上げられない。大海に浮んでいて水はあるけれど、塩水なので飲むこともない。これもまた餓鬼道の苦と思われたのでした。こうして室山・水島など、所々の戦いに勝ったので、人々も少し元気がもどったように見えましたが、やがて一谷という所で一門が多く滅びた後は、直衣・束帯とは変わって、鉄の鎧・甲を身につけ、明けても暮れても毎日、戦いの鬨の声が絶えなかったのは、阿修羅王と帝釈天の闘争も、こんなかと思われたことでした。一谷を攻め落された後、親は子に先立たれ、妻は夫に別れ、沖に釣する船を敵の船かと肝をつぶし、遠方の松に群がる鷺を見て、源氏の白旗かと心をくだきました。そうして門司、赤間の関で、戦は今日が最後と見えたので、その時二位の尼が申し残したことがございました。『男が生き残るということは千、万に一つもむずかしい。また遠い親類・縁者はたとえたまたま生き残ったといっても、我々の後世の冥福を弔うということもありえません。昔から女は殺さないのが常だから、なんとしてでも生きながらえて、天皇の後世の冥福もお弔い申し上げ、我々の後生も助けてくだされ』とくどくどと申しましたが、それを聞いて夢を見るような気持でおりましたうちに、風が急に吹き出し、空に浮ぶ雲が厚くたなびいて、兵士は心を乱し、天から与えられた運が尽きて、人の力では何ともできません。もはや今は最期と見えたので、二位の尼が、先帝をお抱き申して、船ばたへ出た時、帝はどうしてよいかわからないご様子で、『尼ぜ、私をどちらへ連れて行こうとするのだ』と仰せられましたので、幼い君にお向い申して、涙をこらえて尼が申しましたのは、『君はまだご存じございませんか。前世で十善の戒を守り行ったお力によって、いま天子とお生れになりましたが、悪い縁にひかれて、ご運はもはや尽きておしまいになりました。まず東にお向いになって、伊勢大神宮にお暇を申され、その後西方浄土の仏菩薩方のお迎えにあずかろうとお思いになり、西にお向いになって、御念仏をお唱えなさいませ。この国は辺鄙な粟散辺土といって、悲しいいやな所でございますから、極楽浄土という結構な所へお連れいたしますよ』と、泣く泣くいったので、幼帝は山鳩色の御衣に角髪を結って、御涙をはげしく流されながら、小さくかわいらしい御手を合せ、まず東を伏し拝み、伊勢大神宮にお暇を申され、その後西にお向いになって、御念仏を唱えられたので、二位の尼がすぐさまお抱き申し上げて、海に沈んだご様子に、目もまっ暗になり、正気もなくなってしまって、その時の先帝の御面影は忘れようとしても忘れられず、悲しみを忍ぼうとしても、忍ぶことができません。あの時残った人々のわめき叫んだ声は、叫喚地獄・大叫喚地獄の炎の底で苦しむ罪人の声も、これ以上ではあるまいと思われたことでした。そうして武士どもに捕えられて、上京しました時、播磨国の明石の浦に着いて、ちょっとうとうとした夢の中で、昔の内裏よりずっと立派な所に、先帝をはじめとして、一門の公卿や殿上人がみな格別に礼儀を正して控えていたのを見て、都を出てから、こんな所はまだ見なかったので、『ここはどこです』と尋ねました。すると二位の尼らしい人が、『竜宮城』とお答えになった時、『すばらしい所だ。ここには苦はないのだろうか』と尋ねましたら、『竜宮城の苦は竜畜経の中に見えております。苦をなくすためによくよく後世を弔ってください』と申して、夢が覚めました。その後は、いっそう経を読み、念仏を唱えて、亡くなった人たちのご菩提をお弔しております。これはみんな六道と同じだと思われます」というと、
法皇は、「外国の玄弉三蔵は、インドに仏道修行の旅に出て、悟りを開く前に六道を見たといい、わが国の日蔵上人は、蔵王権現のお力で六道を見たと聞いている。女院がこれほど目の前に御覧になった御事は、まことに珍しいことです」といって、御涙にむせばれると、お供の公卿や殿上人も、みな涙で袖を濡らした。女院も御涙を流したので、お付きの女房たちも、みな袖を濡らしていた。
挿絵:やっち
文章:くさぶき
平家物語「六道之沙汰」登場人物紹介
<女院>
安徳天皇の母であり、平清盛の次女。名は徳子。平家一門とともに西国に落ち、元暦二年(1185)安徳天皇に従って壇ノ浦で入水したが、救助される。そののちに出家し、京都大原の寂光院に住んだ。