藤原内大臣鎌足が病を得た。天智天皇は見舞うために病気の鎌足の元に行幸した。しかし、鎌足の病は悪化の一途を辿っていた……。


日本書紀「天智天皇(7)」

冬 十月十日に、天皇は藤原内大臣鎌足の家に行幸して、御自身で鎌足の病の様子を尋ねなさった。それにもかかわらず、鎌足は病に苦しみ憔悴することこの上なかった。そこで詔して「天の道理が徳の高い者を助けるということに、どうして偽りがあろうか。積善の家には必ず余慶があることに、疑いはない。もし是非ともやりたいことがあれば、すぐに申し上げなさい」と言った。鎌足は応えて「私は全く愚か者です。今更何を申し上げましょうか。ただ、私の死後の葬儀は簡単なもので済ませてください。生きていた頃には軍功を挙げることができませんでした。それなのにどうして死んで、二重にご迷惑をお掛けしましょうや」と申し上げる。当時の賢者が聞いて褒め、「この一言は、人知れずに昔の哲人の優れた言葉に匹敵していた。大樹将軍(だいじゅしょうぐん)の称賛を辞退しようなどと、誰が同じ年齢で言うだろうか」と言った。
十五日に天皇は、皇太弟の大海人皇子を藤原内大臣鎌足の家に派遣して、大織冠(だいしきのこうぶり)と大臣の位を授与した。加えて姓を授与し、藤原氏と称させた。これより以後、鎌足は藤原内大臣と通称された。
十六日に藤原内大臣鎌足は死去した。『日本世記』によると「内大臣は五十歳台にして、私邸で死去した。遺体を山の南に移動して殯(もがり)をした。天は何を見とがめて、せめて老人である鎌足を生かさなかったのだろうか。ああ、哀しいことだ。碑文によると、五十六歳で亡くなったという」と記されている。

十九日に、天皇は藤原内大臣鎌足の家に行幸した。大錦上(だいきんじょう)の位を持つ蘇我赤兄(そがのあかえ)に命じて、天皇の慈愛の籠った詔を読み上げさせた。また、香炉を授与した。
十二月に近江宮の大蔵で出火した。
この冬に、高安城(たかやすのき)を修造して、畿内諸国の田租(でんそ)を収納した。その頃、斑鳩寺(いかるがでら)で出火があった。
この年に、小錦中(しょうきんちゅう)の河内直鯨(かわちのあたいくじら)などを唐に使節として派遣した。また、佐平余自信(さへいよじしん)・佐平鬼室集斯(さへいきしつしゅうし)などが、男女七百人余りを近江国の蒲生郡(かもうのこうり)に移住させた。また、唐は、郭務悰(かくむそう)など二千人余りを派遣した。
九年の正月七日に、重臣たちに詔して、近江宮内で大射をおこなった。
十四日に、朝廷の礼儀と、道路ですれ違う時の礼儀について言及された。また、流言や予言を禁止し、規制した。
二月に庚午年籍を製作した。盗賊と浮浪人を禁止した。時に、天皇は蒲生郡の匱迮野(ひさのの)に行幸して、新宮の候補地を視察なさった。また、高安城を修造して、籾と塩を収納した。また、長門城(ながとのき)を1つと、筑紫城(ちくしのき)を2つ築いた。
三月九日に、長等山の三井寺の泉の傍で、神々の座をもうけ、幣帛を頒布した。中臣金連が祝詞を奏上した。
夏 四月三十日の明朝に、法隆寺で出火があった。一棟も残らず焼失してしまった。大雨が降り、雷が鳴った。
五月には次のようなはやり歌があった。
打橋の 集落(つめ)の遊(あそび)に 出(い)でませ子 玉手(たまで)の家の 八重子(やえこ)の刀自(とじ) 出でましの 悔(くい)はあらじぞ 出でませ子 玉手の家(へ)の 八重子の刀自
六月に、集落で亀を捕獲した。甲羅に「申」の字が記してあった。上部が黄色で、下部は黒色であった。長さは6寸ほどであった。
秋 九月朔日に、阿曇連頬垂(あづみのむらじつらたり)を新羅に派遣した。
この年、水車によってふいごを動かす装置を造り、冶鉄に使用した。


挿絵:茶蕗
文章:紀貫過


日本書紀「天智天皇(7)」登場人物紹介

〈天皇〉
天智天皇(中大兄皇子)のこと。天智天皇七年(668)に即位した。
〈藤原鎌足〉
中臣御食子の子。中大兄皇子と結んで蘇我本宗家を滅ぼし、大化の改新を断行した。その後、大化元年(645)に内臣に任じられた。死に際して、天智天皇から大織冠と藤原の姓を与えられることになる。
〈皇太弟〉
大海人皇子のこと。中大兄皇子の同母弟。中大兄皇子の死後、大友皇子との決戦である壬申の乱に勝利し、天武天皇として即位する。
〈蘇我赤兄〉
蘇我馬子の孫で、蘇我倉麻呂の子。斉明朝・天智朝で昇進を重ねた。天智天皇の死後も大友皇子が首班の近江朝廷で左大臣に任じられたが、壬申の乱以後、流罪にされた。