天智天皇7年夏から8年にかけての内政と外交、天皇の動静について。
日本書紀「天智天皇(6)」
夏四月六日、百済が末都師父(まとしふ)らを遣わして貢物を奉った。十六日、末都師父らは帰国した。
五月五日、天智天皇は蒲生野で狩猟を行った。皇太弟の大海人皇子、諸王、内臣中臣鎌足および群臣、皆悉く供をした。
六月、伊勢王とその弟王が相次いで亡くなった。彼らの官位はいまだ詳しく分かっていない。
秋七月、高句麗が越の路より使者を遣わして貢物を奉った。風が強く波が高いため、彼らは帰国することができなかった。栗前(くりくま)王を筑紫率に任じた。時に近江国で武芸を講じた。また、多くの牧場を置いて放牧を行った。そして、越国が燃える土と燃える水を献上した。それから、浜辺の御殿の下にたくさんの魚がやってきて水面を覆いつくすといったことがあった。さらに、蝦夷を饗応した。また、舎人たちに命じて所々で宴を開いた。時の人々は「天皇は位を去られるのだろうか」と噂した。
九月十二日、新羅が沙㖨(サトク/新羅の地名)の級飡(キュウサン/新羅の官名)の金東嚴らを遣わして貢物を奉った。二十六日、内臣中臣鎌足は沙門法弁(ほうべん)と秦筆(はたのふで)とを遣わして、新羅の上臣大角干(ダイカクカン/新羅の最高官位)の金庾信(キムユシン)に船一艘を贈り、東嚴たちに言付けた。二十九日、布勢臣耳麻呂を遣わして、新羅王に貢物を贈る船一艘を贈り、東嚴たちに言付けた。
冬十月、大唐の大将軍英公が高句麗を討ち滅ぼした。高句麗の仲牟王(チュウムオウ)は初めて国を建てたとき、千年この国を治めたいと思った。王の母は「もし良く国を治めたとしても千年は無理でしょう。ただし、七百年なら治められるでしょう」と言った。今、この国が滅んだのはまさに建国してから七百年後のことであった。
十一月一日、新羅王に絹五十匹・綿五百斤・韋一百枚を贈り、東嚴たちに言付けた。東嚴たちにもそれぞれ物を贈った。五日、小山下道守臣麻呂、吉士小鮪を新羅に遣わした。この日、東嚴たちが帰国した。
この年、沙門道行が草薙剣を盗んで新羅に逃亡した。しかし、途中で暴風雨に遭って迷って戻ってきた。
天智天皇八年春正月九日、蘇我赤兄臣を筑紫率に任じた。
三月十一日、耽羅が王子の久麻伎(くまき)らを遣わして貢物を奉った。十八日、耽羅王に五穀の種を贈った。この日、王子久麻伎らが帰国した。
夏五月五日、天皇は山科野で狩猟を行った。皇太弟の大海人皇子、諸王、内大臣藤原鎌足および群臣、皆悉く供をした。
秋八月三日、天皇は高安嶺に登り、ここに城を築きたいと相談した。しかし、民の疲弊を憐れんで作らなかった。時の人はこれに感じ入って「まことにこれを仁愛の徳が豊かといわずして何といおうか」と言った。
この秋、藤原内大臣鎌足の家に雷が落ちた。
九月十一日、新羅は沙飡(ササン/新羅の官位)の督儒らを遣わして貢物を奉った。
挿絵:あんこ
文章:水月
日本書紀「天智天皇(6)」登場人物紹介
〈天智天皇〉
第38代天皇。舒明天皇と皇極・斉明天皇の子。
〈中臣鎌足〉
天智天皇の腹心。