土佐坊が討たれたとの知らせが届き、頼朝は弟の範頼に義経追討を命じる。
さて足立新三郎という雑色がいた。「この男は低い身分ではありますが、格別に利口で気のきく男です。召し使いください」といって、頼朝が判官義経のもとに差し出したが、内々に「九郎のふるまいを見て、自分に知らせよ」と頼朝から言われていた。
昌俊が斬られたのを見て、新三郎は夜も昼も休まず鎌倉に駆け下り、鎌倉殿にこのことを報告したので、頼朝は舎弟三河守範頼を討手として上京させることにした。範頼はしきりに辞退したが、再三命じられてどうしようもなく、鎧・甲をつけて別れを告げに来た。「お前も九郎のまねをするなよ」と言われたので、この言葉に恐ろしくなって、鎧・甲をぬぎ捨て、上京は中止にした。
範頼は、頼朝に対して全く不忠の思いはない旨を、毎日十枚ずつの起請を昼は書き、夜は頼朝の邸のお庭の中で読みあげ読みあげして、百日間に千枚の起請を書いて提出したけれども、そのかいもなく、結局討たれてしまった。
その後、北条四郎時政を大将として、討手が上京すると伝わったので、判官は九州の方へ逃げようと思い立った。緒方三郎維義は、平家を九州の内にも入れずに追い出すほどの勢力のある者だったため、判官は、「私の頼みを受けてくれ」と言った。
「それならば、貴殿の家来として仕える菊池二郎高直は年来の敵です。その男の首を斬っていただき、そのうえでお頼みを受け申そう」と応えた。判官はすぐに菊池を与えたので、維義は六条河原に引き出して菊池の首を斬った。その後、維義は承知してかいがいしく働いた。
同年11月2日、九郎大夫判官は、院の御所へ参って、大蔵卿泰経朝臣を通して奏聞した。
「義経が院の御為に奉公の忠義を尽したことは、今更らしく初めて申し上げるまでもございません。それなのに、頼朝は郎等たちの讒言によって、義経を討とうといたします。そのため、しばらく九州の方へ下りたいと存じております。そして何とかして院の庁の御下し文を一通下していただきたく存じます」
法皇は、「このことを頼朝が聞き伝えたなら、どうであろうか」と諸卿にご相談したところ、「義経が都におったまま、関東の大軍が乱入しましたら、京都の秩序が乱れて混乱が絶えないに相違ありません。義経が遠国に下ってしまいますれば、しばらくその恐れはないでしょう」とおのおの声を揃えて申されたので、緒方三郎をはじめとして、臼杵・戸次・松浦党など、すべて九州の者は、義経を大将として、その命令に従うように、という院の庁の御下し文を義経に授けた。義経は、その兵500余騎、翌3日の午前6時頃、京都に少しの災禍も起こさず、なんの波風も立てずに下っていった。
摂津国源氏、太田太郎頼基は、「自分の門の前を通しておきながら、矢の一つも射かけずいられようか」といって、川原津という所で義経の軍に追いついて攻め戦う。判官は500余騎、太田太郎は60余騎であったので、中に取り囲み、「皆殺しにしろ、逃すな」といって、さんざんに攻めた。そのため太田太郎は自身は傷つき、家子・郎等が多く討たれ、馬の腹を射られて引き退く。判官は多くの首を斬り、それを晒し首にして、軍神に祀った。門出に縁起がよいと喜んで、大物の浦から船に乗って下ったが、ちょうどその時、西風がはげしく吹き、住吉の浦に打ち上げられて、吉野の奥に隠れた。
そこで吉野法師に攻められ、義経は奈良へ逃げる。奈良法師に攻められて、また都に帰り入り、北国を通って、最後に奥州へ下った。都から連れて行った女房たち10余人を、住吉の浦に捨て置いたので、松の下、砂の上に、袴を踏み乱し、袖を片敷いて泣き臥していた。それを住吉の神官どもがかわいそうに思って、女房たちをみな京へ送った。
およそ判官の頼りにしていた、叔父の信太三郎先生義憲、十郎蔵人行家、緒方三郎維義の船たちは、浦々島々に打ち寄せられて、互いにその行方もわからない。唐突に西の風が吹いたことも、平家の怨霊のせいと思われた。同年11月7日に、鎌倉の源二位頼朝卿の代官として、北条四郎時政が6万余騎を引き連れて都に入る。伊予守源義経、備前守同行家、信太三郎先生同義憲を追討すべきであることを奏聞したので、すぐに院宣を下された。去る2日には義経が申請したとおりに、頼朝に背くようにという院の庁の御下し文をなされ、同月8日には頼朝の申し状によって、義経追討の院宣を下す。朝に変り夕にまた変わるという、世間の定めなさこそまことに悲しく哀れである。
挿絵:雷万郎
文章:くさぶき
平家物語「判官都落ち」登場人物紹介
<足立新三郎>
安達清経。頼朝の雑色。