ついに天智天皇の時代が始まる。
天智天皇(2)
(天智帝即位)元年春正月27日、百済の佐平(官位名)である鬼室福信(きしつふくしん)に矢を十万本・糸を五百束・綿を一千個・布を一千枚・なめし皮を一千枚・稲の種を三千個与えた。3月4日、百済の王に布を三百枚贈った。この月、唐人・新羅人が高句麗を征伐し、高句麗が我が国に救いを求めたので、軍を遣わして䟽留城(そるさし)に立て籠った。そのため、唐人は南方の境を侵略できず、また新羅も西方の要塞を獲得できなかった。夏4月にネズミが馬の尻尾の間で子を産み、仏弟子の道顯(どうけん)が占って曰く、北方の国の人は南方の国に服従する、恐らくは高句麗が敗れて日本に付くのではないかと。
(同年)5月、大将軍である大錦中(だいきんちゅう/官位名)の阿曇比邏夫連(あずみのひらぶのむらじ)等は船師(ふなし)百七十艘(そう)を率いて、豊璋等を百済国へ送った。勅を宣い、豊璋等に王位を継がせ、また金の札を福信に渡してその背を撫で、褒めて冠位を与えた。その時、豊璋等は福信と共に拝して勅を受け、周囲の者どもは涙を流した。(同年)6月28日、百済に達率萬智(だちそちまち)等を遣わして御調(みつぎ)や献上物を進呈した。
(同年)冬12月、百済王豊璋・臣下の佐平福信等が、狹井連(さいのむらじ)[名は不明]・朴市田来津(えちのたくつ)と共に議して曰く、
「この州柔(つぬ)は、遠隔の田畑・痩せた土地・農作養蚕に不向きな地、ここは守りの戦場だ。ここを長く本拠地にすれば、民が飢饉に陥ってしまう。今こそ避城(へさし)に遷るべきだ、避城は西北一帯に古くから存在する川の水で、東南方面は深泥(しんでい)の巨大な堤防を守りに利用でき、周囲に田を巡らし溝を掘って雨が降り、華と実と毛が三韓でも上物だ。衣食の源は天と地の二種にある。低地で嫌らしいといえど、どうして遷らずにいられようか」と。
ここで、朴市田來津(えちのたくつ)が独り前に出て諫めて曰く、
「避城と敵の在処との間は一晩で行ける、どちらも非常に近いためだ。もし不慮なことでもあれば、悔やむに悔やみきれない。飢餓の件は後だ、滅亡は先だ。今敵がみだりに攻め入らないのは、州柔に山険(やまさか)を置いて、完全に防ぎ、山も険しく、また谷が狭いので、とことん守りやすく、攻めにくいからだ。もし低地を本拠地とすれば、どうしてこのように固く居り、動かず、今日に至ることができただろうか」と。
ついには諫める言葉を聞かず、避城に都を遷してしまった。
この年、百済を救わんと、兵器を修繕し、舟を揃え、軍の食糧を育てた。この年である、太歲壬戌。
(即位)2年春2月2日、百済は、達率金受(だちそちきんじゅ)等を遣わして御調を進上した。新羅人は百済の南方の畔(ほとり)四州を焼き、さらには安徳(恐らく地名)などの用地を掌握した。避城は敵から近く、ここには居られない。そうして州柔(つぬ)に帰った。田来津(たくつ)が考えた通りになってしまった。
この月、佐平の福信は、唐の虜囚である続守言(しょくしゅげん)等を日本に送った。
挿絵:ユカ
文章:松
日本書紀「天智天皇(2)」登場人物紹介
<鬼室福信>
百済の王族。将軍でもある。
<豊璋>
百済最後の王である義慈王の王子。