唐の侵攻により、朝鮮半島は混乱に陥っていた。日本は百済救援のため、王子豊璋に五千の兵をつけて彼を本国へ送り返したが…。
日本書紀「天智天皇(1)」
天命開別天皇(あめのみことひらかすわけのすめらみこと/天智天皇)は息長足日廣額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと/舒明天皇)の太子である。母親を天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと/皇極・斉明天皇)と申し上げる。
皇極天皇の四年に、皇極帝は皇位を天萬豊日天皇(あめよろづとよひのすめらみこと/孝徳天皇)に譲り、後の天智帝を立てて皇太子とされた。孝徳天皇は白雉五年の十月に崩御した。明くる年、皇祖母(すめみおや)となっていた皇極帝が重祚して斉明天皇となられた。斉明天皇はその治世七年目の七月、丁巳の日に崩御した。そのとき皇太子であった天智天皇は喪服を着て皇太子の立場のまま政務を執られた。
この月、唐の蘇定方将軍が突厥の王子契苾加力(けいひつかりゃく)らとともに水陸両方から高麗の城下に迫ってきた。
皇太子(天智天皇)は長津宮(博多の大津)にお移りになった。そこで軍の指揮を執られた。
八月には将軍である大華下、安曇比羅夫連(あずみのひらふのむらじ)と小華下、河邊百枝連(かわべのももえのむらじ)ら、後軍の将として引田比羅夫臣(ひけたのひらふのおみ)、大山上の物部連熊(もののべのむらじくま)、同じく大山上の守君大石(もりのきみおおし)らを遣わして百済の救援にあたらせ、また、武器や食糧も送った。(或る本には守君大石に続けて大山下の狭井連檳榔(さいのむらじあじまき)、小山下の秦造田来津(はたのみやつこたくつ)を遣わして百済を守らせたという。)
九月、皇太子は長津宮におられる。織冠を百済の王子豊璋に授け、また、多臣蔣敷(おおのおみこもしき)の妹を豊璋に娶わせた。そして大山下の狭井連檳榔と小山下の秦造田来津に五千人余りの軍を率いさせて豊璋王子を故郷の百済に送らせた。豊璋が国に入るときに、鬼室福信が迎えに来て王子を拝み、国の政治をすべて王子に委ねた。
十二月、高麗が言うことには、「この十二月に高麗国には寒波が押し寄せて河が凍りました。そこで唐軍は雲のように高い車や門を突き破る車を引き連れて鼓や鐘を高らかに鳴らして攻めてきました。しかし高麗の軍勢は勇ましいです。唐軍の小城を二つ奪いました。二つの砦だけが残りました。唐は奪われた城を夜にまた奪う計画でした。しかし、唐の兵は膝を抱いて泣き、弱って力尽き、ついに奪い返すことはかないませんでした」とのことであった。
臍を噛むとはまさにこのことである。
(釈道顕が言うには、新羅の王族である金春秋の本意は高麗を討つことであったが、先に百済を討ったのは、近年百済に攻められることが多く苦しんでいたので、そのようにしたのだということである)
この年、播磨国司の岸田臣麻呂らが宝剣を献上し、「狭夜郡の人が禾田の穴の中で見つけました」と言った。また、高麗救援のために派遣された日本の軍勢が百済の加巴利浜に泊まって火を焚いていると、燃えた灰のあとが穴になってかすかな音が聞こえた。それはまるで鏑矢の音のようだった。或る人は、これは高麗と百済が滅びる予兆ではないかと言った。
挿絵:茶蕗
文章:水月
日本書紀「天智天皇(1)」登場人物紹介
<天智天皇>
第38代天皇。舒明天皇と皇極・斉明天皇の子。斉明天皇崩御に伴い、皇太子のまま政務を執る。
<豊璋>
百済の王子。日本に住んでいたが、百済復興のために故郷に帰る。