源氏方の和田義盛が平家の舟に矢を射かけ、遠矢の応酬がはじまる。また、イルカが大量発生した。


平家物語「遠矢」

 源氏方でも、和田小太郎義盛は船には乗らず、馬に乗って渚に控え、甲を脱いで人に持たせて鐙の先を踏み反らせて弓を引き絞って射たので、三町(一町≒1.09m)前後の物は外すことなく強く射抜いた。その中で殊に遠く射ったと思しきものについて、
「その矢を返していただきたい」
 と手招きした。
 平家方の新中納言平知盛がこれを召し寄せてご覧になると、白箆(篠竹を焦がしたり漆を塗ったりしないでつくった矢柄)に鶴の根元の白い羽と鴻の羽を混ぜ合わせた羽根をつけた矢で、十三束二伏(一束≒8cm(握りこぶし一つ分)、一伏≒2cm)あり、沓巻から一束ほど離れたところに『和田小太郎平義盛』と漆で書きつけてある。平家方に精兵多いといえども、さすがに遠矢を射る者は少なかったのであろう、やや時間を置いて伊予国の住人、新居紀四郎親清を召し出されてこの矢を給わって射返した。これも沖より渚へ三町余りをつっと射渡して、和田小太郎の後ろ一段(約10.9m)余りのところに控えていた三浦石左近太郎の左腕に強く突き刺さった。
 三浦の者達はこれを見て、
「和田小太郎が自分よりも遠い矢を射る者はないと思って恥をかいた憎さよ。あれを見ろ」
 と言って笑うので、和田小太郎はこれを聞き、
「おもしろくないことだ」
 と言って小舟に乗って漕ぎ出させ、平家の軍勢の中をさしつめ引きつめ散々に射たので、多くの者が射殺され、または負傷した。
 また、九郎判官源義経のお乗りになった舟に沖から白箆の大きな矢を一つ射立てて、和田がしたように、
「こちらへ返していただきたい」
 と手招きした。
 判官がこれを抜かせてご覧になれば、白箆に山鳥の尾の羽根をつけた矢で、十四束三伏あるものに『伊予国住人新居紀四郎親清』と書きつけてある。
 判官は後藤兵衛実基を召して、
「この矢を射るべき者は味方に誰かおるか」
 と仰るので、
「甲斐源氏に浅利与一どのが精兵としておられます」
 ということであったので呼べば、浅利与一が罷り越した。
 判官が仰ることには、
「沖よりこの矢を射てきたのだが、これを射返せと手招きしているのです。貴公がやってくださらぬか」
 とのことであったので、
「頂戴して拝見しましょう」
 と言って、矢を指先で捻って具合を調べ、
「これは箆が少し弱うございます。矢束もちいと短うございますな。同じことならば、この義成の矢で仕りましょう」
 と言って、塗籠籐の九尺ばかりの弓に、塗箆(漆塗りの矢柄)に黒ぼろの羽根をつけた矢で、自分の大きな握りこぶし十五個分ほどの長さのものをつがえてひょうっと放つ。それは四町余りをつっと射渡して、大船の舳先に立っていた新居紀四郎親清の中心を射抜いて舟底へ真っ逆さまに射倒した。彼の生死は分からない。元より浅利与一は弓の達人である。二町先を走る鹿を外さずに射たともいう。
 その後、源平は互いに命を惜しまず喚き叫んで攻め戦った。どちらが劣っているというふうにも見えなかった。しかしながら平家方には三種の神器を持った十善の帝王(安徳天皇)がいらっしゃったので、源氏方はどうだろうかと危なく思っていたところに、たびたび白雲かと思われて虚空に漂っていたが、雲ではないものが現れた。主のいない白旗が一流舞い降りて、源氏の舟の舳先に、竿についた緒が触れるほどに見えた。
「これは八幡大菩薩が顕現なさったのだ」
 判官義経はそう言って喜んで、口と手を洗い清めてこれを拝し奉った。源氏の兵共はみなこのようであった。
 また、源氏の方よりイルカという魚が千、二千匹ほど這うようにして平家の方へ向かってくる。平宗盛はこれをご覧になって小博士晴信を召して、
「イルカは常に多かったけれども、いまだこのようなことはなかった。どういうことなのか占ってみよ」
 と仰せになったので、
「このイルカが水面に出て呼吸をしてまだ水中に戻れば、源氏は滅びます。這って通っていくならば、御味方の軍勢が危ういということです」
 晴信がそう言い終わらぬうちにイルカは平家の舟の下をまっすぐに這って通っていった。
「世の中は今はこういうことです」
 晴信はそう申し上げた。

 阿波民部重能は、この三年の間、平家によくよく忠義を尽くし、度々の合戦で命を惜しまず防ぎ戦ってきたが、子息の田内左衛門を生け捕りにされて、もうどうにもしようがないと思ったのか、たちどころに心変わりして、源氏方に同心していた。
 平家は計略で高貴な人を兵船に乗せ、雑兵どもを唐船に乗せて、源氏が狙い通りに唐船を攻めれば中に取り籠めて打とうと準備していたのだが、阿波民部が寝返ったので、源氏は唐船には目もくれず、大将軍が身をやつしてお乗りになる兵船を攻めた。
 新中納言平知盛は
「おもしろくない。重能めを斬って捨てるべきだったのに」
 と千度後悔されたが、もはやどうしようもない。
 そうしているうちに、四国や九州の兵どもはみな平家に背いて源氏方についた。今まで従っていた者どもも君に向かって弓を引き、主に対して太刀を抜く。あの岸に舟をつけようとしたら波が高くてそれも叶わない。この汀に寄ろうとすれば、敵が矢先を揃えて待ち構えている。源平の争いは今日を限りと見えた。


挿絵:ユカ
文章:水月


平家物語「遠矢」登場人物紹介

〈和田義盛〉
源氏方の御家人。
〈源義経〉
源頼朝の弟で、この合戦の総大将。
〈浅利与一〉
源氏方。弓の名手。
〈新居親清〉
平家方。弓の名手。
〈平知盛〉
平清盛の四男。
〈平宗盛〉
平清盛の三男。