阿倍比羅夫は蝦夷の粛慎を討伐した。
この年に、越国守の阿倍引田臣比羅夫は粛慎(みしはせ。現在の北海道方面に居住する蝦夷)を討伐し、生きた羆(ひぐま)2頭・羆の皮70枚を献上した。僧の智踰が指南車(方角を指し示す車)を作った。
出雲国が「北海の浜に、死んだ魚が累積しております。厚さは3尺ほどになり、魚の大きさは河豚ほどで、雀のような口をして、針の鱗があります。鱗の長さは数寸です。土地の者は『雀が海に入って魚になった。名付けて雀魚(すずめうお。ハコフグ科の海魚)という』と申しております」と奏上した。
或る本によると、庚申の年(2年後の斉明天皇6年)の7月、百済が使者を派遣して、『大唐と新羅が同盟を組んで私どもを攻撃し、義慈王・王后・太子を捕虜にして引き揚げました』と奏上した。このため日本国は兵卒を西北の海岸に陣営させ、城柵を修理した。雀魚は、このように山川を断ち塞いだことの前兆であるという。
また西海使の小花下阿曇連頬垂が百済から帰還して、「百済が新羅を討伐して帰る際、馬が勝手に寺の金堂のまわりを巡り歩き、昼も夜も休むことがありません。足を止めるのは草を食べる時だけでした」と奏上した。或る本によると、庚申の年に敵に滅ぼされることの前兆であるという。
斉明天皇五年春正月己卯朔辛巳(1月3日)、天皇は紀温湯から帰京した。
三月戊寅朔(3月1日)、天皇は吉野に行幸し、饗宴を催された。
庚辰(3日)、天皇は近江の平浦に行幸した。「平」はここではヒラという。
丁亥(10日)に、吐火羅人が妻の舎衛婦人とともに来朝した。
甲午(17日)、甘檮丘の東の川原に須弥山を造り、陸奥国と越国の蝦夷を饗応した。「檮」はここではカシ、「川上」はここではカハラという。
この月に、阿倍臣(名を欠く)を遣わして、船軍180艘を率いて蝦夷国を討伐した。阿倍臣は、飽田と渟代2郡の蝦夷241人、その捕虜31人、津軽郡の蝦夷112人、その捕虜4人、胆振鉏の蝦夷20人を一箇所に集めて、おおいに饗応し、賜禄を与えた。「胆振鉏」はここではイフリサヘという。
そうして船1隻と5色の綵帛とを供えて、その地の神を祭った。肉入籠に着いた時、問菟の蝦夷である胆鹿島と菟穂名の2人が進み出て、「後方羊蹄を政庁の地となさいませ」と言った。「肉入籠」はここではシシリコ、「問菟」はここではトヒウ、「菟穂名」はここではウホナ、「後方羊蹄」はここではシリヘシという。政庁の地というのは、蝦夷の郡の役所のことであろうか。胆鹿島らの言葉に従って、そこに郡領を置いて帰った。道奥と越との国司にそれぞれ位二階、郡領と主政とにそれぞれ一階を授けた。或る本によると、阿倍引田臣比羅夫は粛慎と戦って帰り、捕虜49人を献上したという。
挿絵:茶蕗
文章:くさぶき
日本書紀「斉明天皇(6)」登場人物紹介
<阿倍比羅夫>
斉明天皇の御代の将軍。阿倍宿奈麻呂の父。