両軍を海が隔てているため、軍船を持たない源氏は攻めあぐね、平家は源範頼の軍勢を挑発していた。
源平の陣の間隔は、海面25町(25万メートル)ばかりを隔てている。船がなくては容易に渡るすべがなかったため、源氏の大勢は向いの山に宿営して、いたずらに日々を過ごしていた。平家の方から、血気さかんな若者たちが小船に乗って船頭に命じて漕ぎ出させ、扇を上げて、「ここを渡って来い」と差し招いた。
源氏の者たちは、「穏やかではないな。どうしてくれよう」と言っているうちに、同月25日の夜になって、佐々木三郎盛綱は、浦の男を1人味方につけ、白い小袖、大口、白鞘巻などを与え、うまく騙しきって、「この海に、馬で渡れそうな所はあるか」と尋ねたところ、
「浦の者たちは大勢おりますが、地形まで知っている者はまれです。自分はよく知っています。具体的には、川の瀬のような所があり、月の初めには東にあります。月の末には西にあります。両方の瀬の間は、海上10町(10メートル)ほどでございます。この瀬は御馬なら容易にお渡りになれましょう」
と男が答えたので、佐々木はたいそう喜んで、自分の家子や郎等にも知らせず、その男と2人だけで人目を忍んで抜け出し、裸になり、例の瀬のような所を見ると、たしかにそれほど深くはなかった。水が膝や腰、肩までで立てる所もあるし、鬢が濡れる所もある。深い所を泳いで、浅い所に泳ぎ着く。
男は、「これから南は、北よりずっと浅うございます。敵が矢先を揃えて待ち受ける所に、裸では勝ち目がございますまい。お帰りください」と言ったので、佐々木はなるほどそうだと思って帰ったが、「下郎はどこの者ともわからぬあてにならない者だから、また人に味方して地形のことを教えることだろう。自分だけが知っていることにしよう」と思って、その男を刺し殺し、首を斬って捨ててしまった。
同月26日の午前8時頃、平家がまた小船に乗って船頭に漕ぎ出させて、「ここを渡って来い」と手招きをした。佐々木三郎は地理を既に知っていたため、滋目結の鎧直垂の上に黒糸縅の鎧を着て、白葦毛の馬に乗り、家子や郎等7騎と共にざっと海へ馬を入れて渡った。
大将軍三河守範頼(源範頼)が「あれを制止せよ、留めよ」と言うと、土肥次郎実平は、馬を鞭打ち鐙を踏んで、追いつくと、「いかがした佐々木殿、憑き物でもして狂われたか。大将軍の許しもないのに乱暴である。留まりなされ」と言ったが、耳にも入れずに馬を渡したので、土肥次郎も制止することができず、そのまま連れ立って渡った。馬の草脇や鞅尽し、太腹に水がつく所もあり、鞍壺を水が越すような所もある。深い所は馬を泳がせ、浅い所に上がった。
大将軍の三河守はこれを見て、「佐々木に一杯食わされた。浅かったのか。渡れや渡れ」と命令したので、3万余騎の大軍勢がみな海に馬を入れて渡った。平家の方では、「なんということだ」と、多くの船を浮かべ、矢先を揃えて、弓に矢をつがえては引き、つがえては引いて、さんざんに射た。
源氏の軍兵たちはこれをものともせず、甲の錣を傾け、平家の船に乗り移り、乗り移りして、わめき叫んで攻め戦う。源平の軍勢が互いに乱れ合い、あるいは船を踏んで沈ませて死ぬ者もあり、あるいは船をひっくり返されて慌てふためく者もある。一日中戦って夜になったので、平家の船は沖に浮かんでいる。
源氏は児島に上がって、人馬の息を休めた。平家は八島へ漕ぎ戻る。源氏は心は猛々しくはやっていたが、船がなかったので、追って攻戦することはなかった。「昔から今に至るまで、馬で川を渡る武士はいるが、馬で海を渡るのは、インドや中国ならいざ知らず、わが国では世にもまれな例だ」といって、備前の児島を佐々木に与えた。鎌倉殿(頼朝)の御教書にもその由が載せられた。
挿絵:あんこ
文章:くさぶき
平家物語「藤戸(後)」登場人物紹介
<源範頼>
源義朝の六男であり、頼朝の弟。三河国(愛知県)の蒲御厨に生まれたため「蒲冠者(かばのかんじゃ)」と呼ばれた。
<佐々木盛綱>
近江国(滋賀県)の佐々木庄を本領とする秀義と源為義の娘の子。