維盛が入水したことを聞いた頼朝は、恩人の息子である維盛の命を救えなかったことを悔やんだ。
このこと(維盛が入水したこと)を鎌倉の兵衛佐頼朝(源頼朝)は人づてに聞いて、「ああ、心の隔てなく訪ねて対面してくださったなら、命だけはお助けしただろうに。小松の内大臣(平重盛)のことは、なおざりに思ってはいない。池禅尼の使いとして、頼朝を死罪から流罪におなだめくださったのは、あの内大臣のご恩によるものだ。その恩を忘れられないので、子息たちのこともおろそかには思っていない。まして出家などなさった以上は、あれこれ言うまでもない」と言った。
さて、平家は讃岐の八島へ帰られた後も、東国から新手の軍兵数万騎が、都に着いて四国へ攻め下るとも噂されている。九州から臼杵・戸次・松浦党が加勢して押し寄せるともいわれている。あれを聞き、これを聞くにつけても、ただ耳を驚かせ、肝魂を消すよりほかはなかった。
今度の一の谷で、平家一門の人々が大勢討たれて残り少なくなり、主だった侍たちは半分以上が死んだ。今は力が尽きてしまって、阿波民部大夫重能の兄弟が、四国の者たちを味方に引き入れて、まさか敗退することはあるまいと言っていたのを、高い山や深い海のようにたいそう頼みにしていた。女房たちは寄り集まって、ただ泣くよりほかはなかった。
こうして7月25日になった。「昨年の今日は都を出たのだったな。早くもまたこの日がめぐって来てしまった」といって、当時の嘆かわしく慌ただしかったことを言って、泣いたり笑ったりしていた。
同月28日、京都では新帝の即位式が行われた。内侍所・神璽・宝剣もない即位式の例は、神武天皇以来82代になるが、今度が初めてだと聞く。8月6日、除目が行われて、蒲冠者範頼が三河守になる。九郎冠者義経は左衛門尉に任ぜられた。すぐさま使(検非違使)の宣旨をこうむって検非違使尉になり、九郎判官といった。
そのうちに秋もしだいに深く、荻の上を吹く風もようやく身にしみ、萩から滴り落ちる露もいよいよ多くなり、恨むように哀れな虫の声々が聞え、稲の葉が風にそよぎ、木の葉が少しずつ散る様子など、物思いのない者にさえも、旅の空の下でふけゆく秋の風物は悲しく感じられることだろう。まして平家の人々の心の中は、さぞかし悲しく思われただろうと、推し量られて哀れである。
昔は九重の雲の上(宮中)で、春の花を鑑賞し、今は八島の浦で、秋の月を悲しい思いで眺める。およそさやけき月を詠んでも、都では今宵どのような様子であろうかと思いやり、心を澄まし、涙を流して、その日その日を過ごしていた。左馬頭行盛は次のように思い続けて歌を詠んだ。
君すめば これも雲井の月なれど なほ愛しきは 都なりけり
(君が住んでおられるのだから、これも雲の上(宮中)の月だが、それでもやはり恋しいのは京の都なのであった)
同年9月12日、三河守範頼は、平家追討のために西国へ出発する。同行の人々は、足利蔵人義兼、加賀美小次郎長清、北条小四郎義時、斎院次官親能、侍大将には土肥次郎実平、子息の弥太郎遠平、三浦介義澄、子息の平六義村、畠山庄司次郎重忠、同じく長野三郎重清、稲毛三郎重成、榛谷四郎重朝、同じく五郎行重、小山小四郎朝政、同じく長沼五郎宗政、土屋三郎宗遠、佐々木三郎盛綱、八田四郎武者朝家、安西三郎秋益、大胡三郎実秀、天野藤内遠景、比企藤内朝宗、同じく藤四郎能員、中条藤次家長、一品房章玄、土佐房昌俊、これらの人々をはじめとして、総勢3万余騎で、都を発って播磨の室に着いた。
平家の方では、大将軍小松新三位中将資盛、同じく少将有盛、丹後侍従忠房、侍大将には、飛騨三郎左衛門景経、越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清をはじめとして、5百余艘の軍船に乗って、備前の児島に着くという情報があったので、源氏は室を出発して、これも備前国の西河尻や藤戸に陣をとったのであった。
挿絵:ユカ
文章:くさぶき
平家物語「藤戸(前編)」登場人物紹介
<平重盛>
頼朝の死罪を流刑にするよう、清盛入道に働きかけた。
<平維盛>
重盛の子。出家したのち、入水自殺した。