旻法師が病にかかり、天皇は直接見舞った。
白雉二年春三月甲午朔丁未(651年3月14日)、丈六の繍像などが完成した。
戊申(15日)、皇祖母尊(皇極上皇)が十師たちを招請して設斎を行った。
6月に、百済と新羅が使者を遣わして朝貢し、物を献上した。
12月の晦に、味経宮(あじふのみや)に2千1百人余りの僧尼を招請して、一切経を読ませた。この夕方、2千7百余りの灯火を朝廷の庭に燃やして、安宅・土側などの経を読ませた。こうして天皇は大郡から新宮に移住した。名は難波長柄豊碕宮という。
この年に、新羅の貢調使である知万沙飡らが、唐国の衣服を着て筑紫に停泊した。朝廷は、勝手に服制を変えたことをにくみ、大声で叱りつけて追い返した。この時、巨勢大臣はこう奏上した。
「まさに今、新羅を討伐しなければ、必ず後悔するでしょう。討伐に際して兵力を用いる必要はありません。難波津から筑紫海の裏に至るまで船を接するほどいっぱいに浮べておき、新羅を召してその罪を問えば、たやすく降伏するでしょう」
三年春正月己未朔(652年1月1日)、元日の礼が終わると、天皇は大郡宮に行幸した。
正月からこの月までに、班田がすっかり終わった。およそ田は長さ30歩を段とし、10段を町とした。段ごとに租稲1束半、町ごとに租稲15束である。
三月戊午朔丙寅(3月9日)、天皇は宮にお帰りになった。
夏四月戊子朔壬寅(4月15日)、僧の恵隠を宮中に招請して、無量寿経を講じさせ、僧の恵資を論議者とし、千人の僧を論議の聴衆とした。
丁未(20日)、講じ終える。この日を初めとして連日雨が降り続いた。9日目には家屋が壊れ、田の苗が被害を受けた。人や牛馬の多くが溺死した。
この月に、戸籍を作った。50戸を里とし、里ごとに長1人を置いた。戸主のすべてに家長をあてた。戸はすべて5家で隣保相保り、1人を長として、互いに検察させた。
新羅と百済が使者を派遣して朝貢し、物を献上した。
9月、宮殿の建造がすっかり終わった。その宮殿の形状は言葉で説明し尽せない。
12月の晦に、国中の僧尼を宮中に招請して、設斎、大捨、そして燃灯を行った。
四年夏五月辛亥朔壬戌(653年5月12日)、大唐に向けて出発する大使の小山上吉士長丹、副使の小乙上吉士駒(駒、またの名を糸)、学問僧の道厳・道通・道光・恵施・覚勝・弁正・恵照・僧忍・知聡・道昭・定恵(定恵は内大臣鎌足の長子である)・安達(安達は中臣渠毎連の子)・道観(道観は春日粟田臣百済の子)、学生巨勢臣薬(薬は豊足臣の子)・氷連老人(老人は真玉の子である。ある本によると、学問僧知弁・義徳、学生坂合部連磐積を加えている)、合わせて121人が共にひとつの船に乗った。室原首御田を送使とした。また大使の大山下高田首根麻呂(またの名を八掬脛)、副使の小乙上掃守連小麻呂、学問僧の道福・義向、合わせて120人が共にひとつの船に乗った。土師連八手を送使とした。
この月に、天皇は旻法師の僧房に行幸し、その病気を見舞って、自身で直接に情のある言葉をかけた。ある本によると、5年7月に、僧旻法師は阿曇寺で病気になった。すると天皇が行幸されてお見舞いになり、その手を取って、「もし法師が今日死ねば、私も法師とともに明日死ぬだろう」と言ったという。
6月に、百済と新羅が使者を派遣して朝貢し、物を献上した。あちこちの大路を修理した。天皇は旻法師が亡くなったことを聞くと、使者を派遣して弔問させ、併せて多くの贈物をした。皇祖母尊と皇太子たちも、みな使者を派遣して旻法師の喪を弔問した。さらに天皇は法師のために、画工の狛竪部子麻呂や鯽魚戸直らに命じて、多くの仏や菩薩の像を造らせ、川原寺に安置された。ある本によると、山田寺に置かれたという。
7月に、大唐に派遣された使者の高田根麻呂らが、薩麻(さつま)の先端、竹島の間で、船ごと沈んで死んだ。ただ5人だけが生き残り、1枚の板にすがりついて竹島に流れ着き、途方に暮れた。5人の中の門部金が、竹を伐採して筏を作り、それに乗って神島に停泊した。この5人は、6日間昼夜にわたり、まったく食物を口にしなかった。ここに金を褒めて位を進め、賜禄があった。
挿絵:あんこ
文章:くさぶき
日本書紀「孝徳天皇(6)」登場人物紹介
<旻法師>
推古天皇一六年(608年)、小野妹子らとともに中国へ渡り、舒明天皇四年(632年)に帰国。大化元年(645年)に国博士となった。