重衡は出家を望むが許されず、かろうじて法然との対面が叶う。


〜屋島院宣・請文〜

 後白河法皇の院宣が平家一門に届く。三種の神器を返還するならば、重衡を屋島に戻すという内容だった。
 重衡の母の二位殿は、泣いて三種の神器を返すよう求めるが、平知盛(清盛の四男)は三種の神器を返還したところで法皇は重衡を帰さないであろうと、院宣を拒否する文書を送った。
戒文
 三位中将重衡(平重衡)はこれを聞いて、「そのように返答するのは当然だろう。平氏一門の人間は、私のことをどんなにふがいなく思ったことだろう」と後悔したが仕方がない。重衡一人の命を惜しんで、あれほど大切なわが国の重宝である三種の神器を返納するとは思えないので、この返書の内容はあらかじめ予想できていた。ただ、まだなにも報告がなかった間は、なんとなく気がかりに思っていたのが、返書がすでに到着して関東へ下ることに決まったので、重衡はすっかり頼みの綱も切れてしまった。万事心細く、都の名残も今更のように惜しく思われた。
 三位中将は土肥次郎実平(土肥実平)を召して、「出家をしたいと思うが、どうしたらよいだろうか」と尋ねると、実平はこのことを九郎御曹司(義経)に伝えた。義経から院の御所へ奏上したところ、「頼朝に三位中将を見せた後なら、どのようにも取り計らうが、ただ今はどうして許すことができよう」と言われたので、この旨を三位中将に伝えた。
「それなら長年師弟の契りを結んだ聖にもう一度対面して、死後の世のことを相談したいと思うが、どうだろうか」と尋ねると、実平は「聖とは誰のことを指すのでしょう」と返した。三位中将が「黒谷の法然房と申す人だ」と応えると、「それならさしつかえありますまい」といって、面会を許可した。中将はたいそう喜んで、聖を招いて涙ながらにこう言った。
「このたび生きながら捕われたのは、再び上人にお目にかからせていただくことになっていたからです。それにしても重衡が来世で助かるには、どうするべきでしょうか。人並の身でございました間は、出仕にとりまぎれ、政務にしばられ、驕り高ぶる心ばかりが強くて、全く来世の幸不幸を顧みておりませんでした。まして運が尽き世間が乱れて以降は、こちらで戦いあちらで争い、人を滅ぼしわが身を助かろうと思う悪心だけが邪魔をして、善心はついに起りません。
 とりわけ奈良の寺々を焼いたことは、勅命であり武命の命令でもあり、主君に仕え、世に従う道理から逃れられず、奈良の僧徒の乱暴を鎮めるために向いました際に、思いがけなく寺を焼き滅亡させるようになりましたこと、しかたのないことですが、その時の大将軍で行った以上、責任は上一人に帰するとか申すそうですから、重衡一人の罪になってしまうだろうと思われます。また一つには、このように誰も思い及ばぬほどあれこれと恥をさらしておりますのも、全くその報いと思い知らされたことです。
 今は頭を剃り、仏戒を守るなどして、ひたすら仏道修行をしたく存じますが、このような身になっていますので、自分の心でも思うようになりません。今日明日ともわからぬ身の行方でありますので、いかなる修行をしても、罪業の一つでも助かろうとも思われないのが口惜しいことです。
 よくよく一生の行いを思い起こしますと、罪業は須弥山(仏教において世界の中心にあるとされる高い山)よりも高く、善行は微塵ばかりも溜まっていません。こうしてむなしく命が終われば、地獄・畜生・餓鬼の三悪道に落ち、悪行の報いとして苦しみを受けるのは間違いありません。どうか上人様、慈悲の心をおこし哀れみをかけて、このような悪人でも助かる方法がありましたら、お示しください」
 その時、上人は涙にむせんでしばらくは何も言わなかった。かなり時がたって、「まことに受け難い人身を受けながら、むなしく三悪道にお帰りになることは、どんなに悲しんでもなお足りない。しかし今この穢土(俗世)を厭い浄土に生れるのを願うために、悪心を捨てて善心を起こされるのは、三世(過去・現在・未来)の仏様もきっと喜ばれることでしょう。その事について俗世から離脱する道はそれぞれだが、末法の濁り乱れた時機には、称名(念仏を唱えること)をもってすぐれた方法としている。志す極楽浄土を九品に分け、仏道修行を南無阿弥陀仏の6字に縮めて、どんな愚痴闇鈍な者でも唱えることができる。罪が深いからといって卑下するべきでない。十悪五逆を犯した者であっても、改心すれば往生ができる。善行が少ないからといって往生の望みを絶ってはいけない。一念十念の心をもてば、仏が迎えに来てくださる。善導は『専称名号至西方』と説明して、もっぱら南無阿弥陀仏の名を唱えると、西方浄土に至る。『念々称名常懺悔』と述べて、念念に阿弥陀仏の名を唱えると、懺悔して常に悔い改めることだと、善導は教えている。『利剣即是弥陀号』と唱えて頼りにしていると、魔物は近づかない。『一声称念罪皆除』と念じていると、罪はすべて除かれる。浄土宗の奥義は各々簡略を主として、大要を知ることが肝心であるとしている。ただし往生ができるか否かは信心の有無によるだろう。ただ深く信じて決して疑ってはいけない。もしこの教えを深く信じて、行住座臥(日常の起居動作)の際、時処諸縁(あらゆる時と場合)を厭わず、心念口称(念仏を心で念じ口で仏名を唱えること)を忘れなければ、畢命(命の終わるとき)を期として、この苦しい世界を出て、かの不退の浄土に往生なさることに、なんに疑いがあろう」
 と教え諭されたので、中将はたいそう喜んで、「この機会に仏戒を受けたいと存じますが、出家しなくては叶わないでしょうか」と尋ねたところ、「出家しない人でも仏戒を保つのは世の常です」といって、額に剃刀を当てて剃るまねをして十戒を授けられたので、中将は随喜の涙を流して、これを受け保った。

 上人も何かにつけ物哀れに思われて、心が暗くなる心地がして、泣く泣く戒を説いた。重衡はお布施ということで、長年つねに遊びに行かれた侍の所に預けておいた御硯を、知時に命じて取り寄せた。上人に差し出し、「この硯は他人におやりにならないで、常に御目の届く所に置かれて、それがし(重衡)の物でだったなと御覧になります度お思いになって、御念仏なさってください。また御隙の際には、経を一巻でも御回向くださいますなら、きっと思い残すことはないでしょう」などと、泣く泣くうったえたので、上人は何とも返事ができないで、これを取って懐に入れ、墨染の袖を絞りつつ、泣く泣く帰っていった。
 この硯は父親の入道相国清盛が、砂金をたくさん宋の皇帝に献上したので、その返礼ということで「日本和田の平大相国の所へ」といって、贈られたという。その名を松陰といった。


挿絵:雷万郎
文章:くさぶき


平家物語「戒文」登場人物紹介

<平重衡>
清盛の四男。1180年5月に源頼政を宇治で破り、12月に東大寺・興福寺を焼いた。84年に一ノ谷の戦で捕らえられる。
<土肥実平>
中村荘司宗平の次男。源頼朝の挙兵にいち早く参じ、石橋山で敗れた頼朝の逃走路を開いた功により、以後重用された。
<法然>
浄土宗の開祖。