皇極天皇は息子、中大兄皇子への譲位を考えるが、紆余曲折の末に同母弟の軽皇子に皇位を譲ることとなる。
皇位の譲り合い
天万豊日天皇(あめよろづとよひのすめらみこと/孝徳天皇)は、天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと/皇極天皇)の同母弟である。仏法を尊び、神道を軽んじるところがあった(生国魂社の神木を伐られた類がこれである)。人となりは素直で情け深く、学者を好み、貴賤をえらばず頻繁に恩勅を下された。
皇極天皇4年6月の庚戌(14日)に、皇極天皇は皇位を中大兄皇子に譲りたいとお思いになり、その旨を詔して仰った。中大兄皇子は天皇の御前を退出してから譲位のことを中臣鎌子連に語られた。
中臣鎌子連はこのように申し上げた。
「古人大兄は殿下の兄、軽皇子は殿下の叔父でいらっしゃいます。今、古人大兄がいらっしゃるのに、殿下が即位されれば人の弟として慎み従う心に違いましょう。しばらくは叔父上を立てて民草の願いにお応えになるのがよろしかろうと存じます」
中大兄はこの意見に深くお喜びになり、内々に天皇に奏上された。
皇極天皇は皇位継承の神器を軽皇子に授けて皇位をお譲りになった。
勅書を下し「ああ、軽皇子よ」云々と仰る。軽皇子はこれを再三固辞して、古人大兄に譲るようにと申し上げた。
「古人大兄皇子は先の天皇の皇子であらせられます。また、年長でもいらっしゃいます。この二つの理由を以て、皇位に即かれる御方と存じます」
軽皇子はそう言った。
すると、古人大兄は座を降りて後ずさりし、拱手してこれを固辞し、
「天皇の思し召しを承り、従います。どうして私などに譲位されることがありましょう。私は願わくは、出家して吉野に入り、仏道の勤行に励んで天皇をお助け申し上げたく思います」
と言った。言い終わると、佩いていた太刀を解いて地に擲ち、自分に仕える舎人達に命じて皆に刀を解かせた。
そして、自ら法興寺の仏殿と塔の間に詣でて髭と髪を剃り、袈裟を身に着けた。
これにより、軽皇子は固辞することができなくなり、高御座に上って即位した。
このとき、大伴長徳連は金の靫を帯びて高御座の右に立った。犬上健部君は金の靫を帯びて高御座の左に立った。
百官の臣・連・国造・伴造・百八十部が列を作って新たな天皇を拝し奉る。
挿絵:やっち
文章:水月
日本書紀「孝徳天皇(1)」登場人物紹介
<軽皇子>
皇極天皇の同母弟。古人大兄皇子との皇位の譲り合いの末に、孝徳天皇として即位する。
<皇極天皇>
当代の天皇。舒明天皇の皇后。軽皇子の同母姉で、中大兄皇子の母。譲位を考えている。
<中大兄皇子>
舒明天皇と皇極天皇の息子。乙巳の変の立役者。
<中臣鎌子>
中大兄皇子の腹心。
<古人大兄皇子>
舒明天皇の息子で中大兄皇子の異母兄。