数々の争いの中で繁栄を極めた蘇我氏だが、その栄華も長くは続かない。


皇極天皇三年冬十一月(644年11月)、蘇我大臣蝦夷とその子息蘇我入鹿は、家を甘橿岡(うまかしのおか)に並べて建てた。
曰く、大臣の家は上の宮門(うえのみかど)と呼ばれ、蘇我人鹿の家は谷の宮門(はさまのみかど)と云った。これは、谷のことを波佐麻(はさま)と云う所以である。また、男(おのこご)女(めのこご)を王子(みこ)と称した。
家の外側には城柵(きかき)を囲い、門の傍には兵庫(つわものぐら)を設けた。門ごとに水を盛る桶をひとつずつ、また、建物を打ち壊すための木鉤(きがき)も数十ほど用意して火災に備えた。常に力人(ちからひと)に武器を持たせて家を守らせた。大臣は長直(ながのあたい)に大丹穂山(おおにほのやま)に桙削寺(ほこぬきのてら)を建立させた。また、家を畝傍山(うねびやま)の東に建てさせ、池を掘って城と称し、庫(つわものぐら)を立てて矢を蓄えるなど致した。常に、五十人もの兵士を周囲に巡らし、邸宅の敷地内を出入りさせた。曰く、健人(ちからひと)をして「東方の儐従者(あずまのしとべ)」と名付けた。

氏の人々は門の内側に侍り、曰く、彼らは名を「祖子孺者(オヤノコノワラワ)」と云った。漢直(あやのあたい)等は、二門のどちらにも控えていた。
その翌年、皇極天皇四年春正月(645年1月)のことである。山々の連なる峰や、河辺や、宮寺(みやてら)などの間を遥か遠くに見るモノがあり、そうして猿の呻くような鳴き声が聞こえた。数えるに10回か、あるいは20回ほど聞こえる。鳴き声の主を探さんと向かってみるもモノは見えず、ただ鳴いて唸る音が響き聞こえるばかりでその姿を見ること能わず、捕らえることも不可能だった。
旧本に云う。この年、京を難波に移し、板蓋宮(いたふきのみや)は廃墟と化す。これはその兆しである……と。
時の人々曰く、
「これはこれ、伊勢大神の使者である」
皇極天皇四年夏四月戊戌(ぼじゅつ)朔(645年4月1日)、高麗(こうらい)の学問僧(ものならうほうし)等は次のような話を語った。
同学の鞍作得志(クラツクリノトクシ)が、虎を友としてその術(ばけ)を学び会得し、また或いは枯れ山を青山に変え、或いは黄色の土地を白き水に変えた。種々の奇術を極めるべきにあらず。
また、その虎は一本の針を授けて曰く、
「ゆめゆめ、人に知られぬようにせよ。これで治療すれば癒えぬ病はないのでな」
虎が言った通り、針によって治癒が不可能な病は無かった。得志は、常にその針を柱の中に置いて隠していた。
その後、虎はその柱を折って針を取り戻し、走り去ってしまった。
高麗国は、得志の帰京したいという思いを知り、毒を盛って殺してしまった。


挿絵:雷万郎
文章:松


日本書紀「皇極天皇(9)」登場人物紹介

<蘇我蝦夷(そがのえみし)>
飛鳥時代の大臣であり、豪族。豊浦(とゆら)大臣とも呼ばれる。
また、名の「えみし」は毛人とも記す。
<蘇我入鹿(そがのいるか)>
飛鳥時代の廷臣、のち大臣。豪族。蘇我蝦夷の子。
名は鞍作(くらつくり)とも。林臣や宗我太郎、林太郎という呼称も。
<鞍作得志(くらつくりのとくし)>
飛鳥時代の人物。名の得志は「とこし」とも呼ばれる。
留学生として高麗(高句麗)へ派遣。虎にまつわる興味深い逸話あり。