蘇我氏の専横に心を痛め、国を憂う中臣鎌子連は共に事を為す主君として中大兄皇子に目をつけ、接近の機会を窺う。


皇極天皇(6)

 皇極天皇三年春正月の一日、中臣鎌子連を神祇伯に任じた。しかし彼はそれを再三固辞して引き受けなかった。病と称して退いて三島に住んだ。
 ときに軽皇子が足を脚を患って参内しなかった。鎌子は以前より軽皇子と親しかった。そのため、彼の宮に参上して宿直しようとした。軽皇子は鎌子の心映えが高く優れており、立ち居振る舞いの堂々としていることを深く知って、寵妃の阿部氏に命じて別殿を掃き清め新しい敷物を高く重ねて席を設け丁重に給仕をさせ、殊に敬い崇めるおもてなしをなさった。
 鎌子は厚遇に感動して舎人にこのように語った。
「格別な恩沢を賜ることは、以前からの望みに過ぎたものだ。皇子が天下の王となるのに誰が異を唱えられようか」
(これは軽皇子の舎人を鎌子の使い走りとして提供したことをいうのである)
 舎人は鎌子の語った内容を皇子に伝えた。軽皇子は大層喜んだ。
 中臣鎌子連は誠実で正しい人で、悪を正して乱れを救いたい気持ちを持っていた。そこで蘇我臣入鹿が君臣長幼の序を無視して国家を我がものにする野望を抱いていることに憤り、皇室の人々との接近を次々に試み、功名を立てられそうな英明な主を探していた。中大兄皇子に心を寄せていたけれど、親しくなかったので未だその深い思いを打ち明けられずにいた。
 そのようなとき、偶然、中大兄皇子が法興寺の槻の樹の下で打毬をしていたので鎌子はその仲間に加わって、皇子の靴が打毬の途中に脱げたのを見てそれを掌中に取りもって御前に進み出て跪き、靴を謹んで差し出した。皇子は向き合って跪き、それを恭しく受け取った。

 それ以来二人は親しくなり、お互いに思うところを述べ合い、すでに隠すところがなかった。
 また、頻りに親交を結んでいることを他人に不審に思われることを恐れて、共に手に書物を持ち、周公や孔子の教えを南淵請安先生のところで学ぶこととし、先生のところへ通う道中に肩を並べて密かに計画を立て、互いの考えが一致しないということがなかった。
 ここで中臣鎌子連は中大兄皇子にこのように相談を持ち掛けた。
「大事を為すには協力者がいるに越したことはありません。蘇我倉山田麻呂の長女を皇子の妃として迎え入れ、姻戚関係を結ばれるようお願いいたします。その後に我々の考えを説明して共に事を計りましょう。これ以上の近道はありません」
 皇子はこれを聞いて大いに喜び、この計画に従った。
 鎌子はすぐに自ら倉山田のところへ赴いて仲人となって婚約を取りまとめた。しかし、倉山田の長女は婚礼の夜に一族の男に盗まれた。(この一族の男とは、身狭臣のことをいう)
 この出来事を受けて、倉山田臣は憂い畏まって天を仰ぎ地に臥してどうしたらよいのかわからなかった。
 次女の姫は父親が憂い畏まっている様子を怪しんで「どうしてそのように憂い畏まっておられるのです」と尋ねた。
 父親はその理由を述べた。
「どうかご心配なさらないでください。私を皇子に差し上げても、遅くはございますまい」
 次女はそう言った。
 父親は大いに喜んで、この次女を皇子に奉った。
 彼女は赤心をもって皇子にお仕えし、それを少しも厭うところがなかった。
 中臣鎌子連は佐伯連子麻呂と葛城稚犬養網田を中大兄皇子に推挙して、云々と述べた。


挿絵:あんこ
文章:水月


日本書紀「皇極天皇(6)」登場人物紹介

〈中臣鎌子連〉
のちの中臣(藤原)鎌足。
蘇我氏の専横を憂い、共に蘇我氏を倒す仲間を探している。
〈軽皇子〉
皇極天皇の弟。
〈中大兄皇子〉
舒明天皇と皇極天皇の皇子。
〈蘇我倉山田麻呂〉
蘇我氏の分家の人。蘇我馬子の子、倉麻呂の息子。
〈蘇我倉山田麻呂の次女〉
遠智娘。姉の代わりに中大兄皇子に嫁ぐ。