平氏が大宰府を逃れて流浪の身となる一方、頼朝は征夷大将軍の院宣が下される。
征夷将軍院宣
そうこうしているうちに、鎌倉の前右兵衛佐頼朝(源頼朝)は、鎌倉にいながらにして征夷将軍の院宣を賜った。使者は左史生の中原康定であった。10月14日、関東に到着する。
兵衛佐は、「頼朝は年来、天皇のお咎めを受けていたが、いまは武勇の名誉が高まったため、鎌倉に居ながら征夷将軍の院宣を賜った。どうして私邸でお受けすることができよう。若宮の社で賜わろう」といって、若宮(新たに勧請した宮)に参詣した。
八幡は鶴が岡に建立している。地形は石清水八幡宮と違わない。回廊があり、楼門があり、八幡宮から由比ヶ浜まで新たに作った道は十余町を見下ろしている。
「そもそも院宣を誰の手で受け取り申すべきか」と評定があった。
「三浦介義澄(三浦義澄)に命じて受け取り申すのがよい。なにせ坂東八ヶ国にその名の聞えた武士、三浦平太郎為次(三浦為継)の子孫である。そのうえ、父の大介(義明)は主君のために命を捨てた武士であるので、黄泉の冥闇を照らしてあの義明の亡魂を慰めることにもなる」ということであった。
院宣の使者である康定は、家子2人・郎等10人を連れていた。院宣を文袋に入れて、雑色の首にかけさせていた。三浦介義澄も家子2人・郎等10人を連れていた。2人の家子は和田三郎宗実、比企藤四郎能員である。10人の郎等を、10人の大名が急遽1人ずつ仕立てたのであった。三浦介のその日の装束は、褐の直垂に、黒糸縅の鎧を着て、いかめしい作りの大太刀をさし、24本さした大中黒の矢を負い、滋籐の弓を脇に挟み、甲を脱いで高紐にかけ、腰をかがめて院宣を受け取る。
康定が、「院宣を受け取り奉るのはいかなる者か。名乗られよ」と言ったので、三浦介とは名乗らず、「三浦荒次郎義澄」と本名を名のった。院宣は覧箱に入れられていた。それを兵衛佐に渡す。しばらくして覧箱を返された。受け取った箱に重さを感じて、康定が開けてみると、中には砂金が百両入っていた。
若宮の拝殿で、康定に酒がすすめられる。斎院次官の中原親能が給仕する。五位の者の一人が食膳を運ぶ。馬3頭を引出物とされた。そのうちの1頭には鞍を置いていた。大宮の侍であった狩野の工藤一﨟祐経がこれを引く。古い萱屋を設えてそこに入れた。厚綿の衣2領、小袖10重を長持に入れて設えてあった。紺藍摺および白布千反を積んである。盃盤は豊かで美麗である。
次の日、康定は兵衛佐の館に向かった。館の内外には侍の詰所があり、内侍と外侍は共に16間の建物である。外侍には家子や郎等が肩を並べ、膝を組んで列座している。内侍には源氏の一門が上座につき、末座には大名や小名が列座している。源氏の上座に康定を座らせる。
しばらくして寝殿へ向かう。広廂に紫の縁の畳を敷いて、康定を座らせた。上座には高麗縁の畳を敷いて、御簾を高く上げさせ、兵衛佐殿が姿を見せた。無紋の狩衣に立烏帽子をかぶっている。顔が大きく、背は低かった。容貌は優美で、言語は明瞭である。まず事の子細を一通り述べる。
「平家は頼朝の威勢に恐れて都を落ち、その後に木曾冠者義仲(木曽義仲)、十郎蔵人行家(源行家)が入って、まるで自らが功名を立てたかのような振る舞いで官加階を思いどおりにし、あまつさえ領国をより好みするのはけしからんことです。奥州の秀衡が陸奥守になり、佐竹四郎高義が常陸守になりましたといって、頼朝の命令に従いません。急ぎ追討せよとの院宣を賜りたく存じます」
左史生康定は「今度康定も名符をお出しすべきですが、いまは院の御使いでございますので、まず都に上りまして、すぐに名符を書き記してお出ししたく存じます。弟の史大夫重能も同じことを申しております」と返す。
兵衛佐は笑って、「今、頼朝の身として各人の名符を受けようとは思ってもいません。しかし、まことにそう申されるのならば、そのつもりでおりましょう」と言った。康定がすぐに今日上京する旨を伝えると、今日ぐらいは逗留するようにと引き留められた。
次の日、康定は兵衛佐の邸に向かった。萌黄糸縅の腹巻一領、銀作りの太刀一振り、滋籐の弓に野矢を添えて与えた。馬を13頭を引出物とした。うち3頭に鞍を置いてある。家子・郎等12人に、直垂・小袖・大口・馬鞍までも配慮してあり、荷をつけた馬が30頭あった。鎌倉を出た次の宿駅から鏡の宿にいたるまで、各宿駅に十石ずつの米を置かれた。その量が多かったため、貧しい人たちへ施したということである。
挿絵:時雨七名
文章:水月
平家物語「征夷将軍院宣」登場人物紹介
<源頼朝>
義朝の三男。平治の乱後、伊豆に流されたが、以仁王の平氏討伐の令旨を受けて挙兵。鎌倉を本拠に関東に勢力を伸ばしている。
<中原康定>
太政官の官人。