大臣蘇我蝦夷と対立した境部摩理勢は山背大兄王の弟、泊瀬王の宮に立てこもるが、山背の説得により自邸に戻る。そこへ蝦夷が軍勢を差し向ける。


日本書紀「舒明天皇(3)」
 そういった次第で、蘇我蝦夷大臣は阿倍臣と中臣連を遣わして再度境部臣摩理勢に「いずれの皇子を天皇とすればよいか」と再度問うた。摩理勢は「以前、大臣が直接問うた日に私はすでに答えている。なぜ今、再度同じことを人伝に答えねばならぬのか」と答える。そして大いに怒って立ち去った。

 このとき、蘇我の一族は一堂に会して島大臣こと蘇我馬子の為に墓を造り、その墓所に集まっていた。ここで摩理勢は墓所の廬を壊し、蘇我の田家(私有の田地を管理するための施設)に退いて墓所に仕えなかった。大臣は怒り、身狭君勝牛(むさのきみかつし)と錦織首赤猪(にしこりのおびとあかゐ)を遣わしてこのように諭した。
「私は貴方の失言を知っているが、肉親の義理ゆえに貴方を殺すことはできない。但し、他人に非があり貴方が正しいのであれば私は必ず他人に逆らって貴方に従うだろう。もし他人が正しくて貴方に非があるのであれば、私は貴方に背いて他人に従う。そういうわけで、貴方が最後まで私に従わないのならば、私と貴方は仲違いをすることになる。そうすると国は乱れるだろう。そして、後世の人は我らが二人して国を乱したと言うだろう。後世に悪名を残すことになるのだ。貴方は身を慎み、逆心を起こしてはならない」
 しかし、摩理勢は尚も従わず、ついには斑鳩に赴いて山背大兄王の異母弟である泊瀬王の宮に住まうようになった。これを受けて大臣はますます怒り、ただちに群卿を遣わして山背大兄にこのように申し上げた。
「この頃、境部摩理勢は私に背いて泊瀬王の宮に隠れております。お願い申し上げます。摩理勢の身柄をお引渡しいただき、その理由を尋問したく存じます」
 山背大兄は、
「摩理勢はもとより我が父聖徳太子のお気に入りで、しばらく滞在しているだけです。どうして叔父上の心に背くことなどありましょうや。どうか咎めないでください」
 と答えた。
 そして、摩理勢に
「貴方が亡き父の恩を忘れず来てくれたことには甚だ愛おしさを感じている。しかし、貴方一人が原因で天下は乱れるであろう。父は臨終の際に子らに『諸々の悪しきことをするな。諸々の善きことを行え』と仰せられた。私はこのお言葉を承って永遠の戒めとしている。そういうわけで、個人的に思うところがあろうと耐え忍んで恨まぬようにしているのだ。また、私は叔父に背くことはできない。どうか、これから先、心を改めてほしい。群卿に従い、自分勝手に退去してはならない」
 と言った。
 このときに大夫(まえつきみ)達もまた「山背大兄王の御命令に背いてはなりません」と摩理勢を諭した。これにより、摩理勢は進退に窮した。泣いて家に戻って引きこもること十日余り、泊瀬王が俄かに病を得て身罷られた。
「生きながらえても私は、一体誰を頼ればよいのか」
 摩理勢は言った。
 大臣は摩理勢を殺そうとして兵を遣わした。摩理勢は軍勢が迫っていることを聞き、次男の阿椰(あや)を従えて門に出て床几に座って待った。時に軍勢が到着し、来目物部伊区比(くめのもののべのいくひ)に命じて二人の首を絞めさせ、父子共に死んだ。そして二人を同じところに埋めた。但し長男の毛津だけが尼寺の瓦舎に逃げ隠れ、そこで一人二人の尼を犯した。ここに一人の尼が恨んで事態を表沙汰にした。寺を囲んで捕らえようとすると、毛津は逃げて畝傍山へ入った。山を探すと、毛津は逃げ場を失って首を刺して山中で死んだ。
 時の人は、
「畝傍山 木立薄けど 頼みかも 毛津の若子の 籠らせりけむ(畝傍山は木立が薄いにもかかわらず、毛津の若様はそれを頼みにしてお籠りなさったのだなぁ)」
 と歌った。


挿絵:708
文章:水月


日本書紀「舒明天皇(3)」登場人物紹介

〈境部摩理勢〉
蘇我馬子の弟。蝦夷の叔父。
〈蘇我蝦夷〉
蘇我馬子の子。大臣。
〈山背大兄王〉
厩戸皇子(聖徳太子)の子。母は蝦夷の妹。
〈泊瀬王〉
厩戸皇子(聖徳太子)の子。山背の異母弟。
〈境部毛津〉
摩理勢の長男。
〈境部阿椰〉
摩理勢の次男。