病に臥した天皇は、田村皇子と山背大兄皇子をそれぞれ召して言葉を遺す。


推古天皇三十四年(626)1月、桃や李の花が咲いた。
3月、寒さで霜が降りた。
夏五月戊子朔丁未(5月20日)、大臣の蘇我馬子が死去した。馬子は稲目宿禰の子である。性格は武略に長け、弁才もあった。三宝(仏教)を篤く敬い、飛鳥川のそばに家を建てた。そして庭に小さな池を掘り、小さな島を池の中に造った。そのため、当時の人は島大臣と呼んだ。

6月に雪が降った。この年は3月から7月まで長い雨が降り、国中が大飢饉になった。老人は草の根を食んで道端で死に、幼子は乳をふくんだまま母子ともに死んだ。また、強盗や窃盗が多発して収まらなかった。
推古天皇三十五年(627年)2月、陸奥国に狗(むじな)が現れ、人に化けて歌った。
5月、蝿が群生した。その塊は十丈ほどもあり、大空に浮かんで信濃坂を越えていった。蝿の鳴る音は雷のようだった。東の上野国までいくと自ら散り散りになった。
推古天皇三十六年二月戊寅朔甲辰(628年2月27日)、天皇は病にかかった。
三月丁未朔戊辰(3月2日)に日食があった。
6日、天皇は病が重くなり、手の施しようもなかった。そこで田村皇子を召してこう語った。
「天位に昇り、鴻基を治め整え、国政を御して民を育て養うのは、もとより容易く言葉にすることではない。常に重みのあるものだ。それゆえ、そなたは慎んで観察し、軽々しく発言してはならない」
その日に、山背大兄皇子を召して「そなたは未熟である。もし心に望むことがあっても、喧言してはならない。必ず群臣の言葉を待ってから発言するように」といった。
7日に、天皇が崩御した。享年75歳。南庭で殯をした。
夏四月壬午朔辛卯(4月10日)、雹が降った。大きさは李の実ほどもあった。春から夏まで干ばつが続いた。
秋九月己巳朔戊子(9月21日)、初めて天皇の葬礼を執り行った。このとき、群臣はそれぞれ殯宮で誄(しのびごと)を述べた。生前、天皇は群臣に「近年、五穀が実らずに民は大いに飢えている。故に、朕のために陵を造って厚く葬ってはならない。竹田皇子の陵に葬るように」と遺詔していた。
24日、竹田皇子(推古天皇の子)の陵に葬った。


挿絵:茶蕗
文章:くさぶき


日本書紀「推古天皇(11)」登場人物紹介

<推<推古天皇>
第33代天皇。
<蘇我馬子>
推古天皇代の大臣。
<田村皇子>
後の舒明天皇。敏達天皇の孫で、彦人大兄皇子の子。
<山背大兄皇子>
厩戸皇子(聖徳太子)の子。