厩戸皇子(聖徳太子)は片岡に遊行した際、道端で飢えた人が横たわっているのを見かける。


推古天皇(7)

 十二月庚午朔(12月1日)、皇太子(厩戸皇子)は片岡に遊行した。その際、飢えた者が道端に倒れていた。厩戸皇子は名を尋ねたが、飢者は答えなかった。厩戸皇子はそれを見て、飲物と食物を与えた。そうして衣服を脱いで、飢者に掛けてやり、「安らかに寝ていよ」と言って、このような歌を詠んだ。
 しなてる 片岡山に 飯に飢て 臥せる その田人あはれ 親無しに 汝生りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て 臥せる その田人あはれ
(片岡山で、飯に飢えて伏せっている農夫よ。ああ、そなたは親もなしに生れてきたわけではあるまい。そなたは仕える皇子はいないのか。飯に飢えて伏せっている農夫よ)
辛未(2日)に、厩戸皇子は使者を遣わして、飢者の様子を見に行かせた。使者は戻ると、「あの飢えた者はすでに死んでおりました」と報告した。すると皇子はたいそう悲しみ、飢者をその地に埋葬させ、土を固く盛って墓を作らせられた。
数日後、厩戸皇子は側近の者を召して、「先日、道で倒れていたあの飢えた者は、凡人ではあるまい。きっと真人(道教で奥義を極めて神仙になった者)であろう」と言い、使者を遣って見に行かせた。使者が戻って、こう報告した。
「墓所に行ってみたところ、土を盛って埋めた場所は動いておりません。しかし中を開けて見ますと、屍骨はすっかりなくなっておりました。ただ、衣服だけが、畳んで棺の上に置いてありました」
そこで皇子は再び使者を遣わして、その衣服を取って来させると、今までどおりにまた着用した。当時の人はたいそう不思議がり、「聖が聖を知るというのは、まことなのだなあ」と、ますます畏まった。

推古天皇二十二年夏五月五日(614年5月5日)、薬猟が催された。
六月丁卯朔己卯(6月13日)、犬上君御田鍬・矢田部造〔名を欠く〕を大唐に遣わした。
8月に、大臣の蘇我馬子が病に伏せった。天皇は大臣の病気平癒を祈って、男女合わせて千人を出家させた。
推古天皇二十三年秋九月(615年9月)、犬上君御田鍬・矢田部造が大唐から帰国した。百済の使者が、犬上君とともに来朝した。
十一月己丑朔庚寅(11月2日)、天皇は百済の客を饗応した。
癸卯(15日)に、高麗の僧・慧慈が帰国した。
推古天皇二十四年春正月(616年1月)、桃や李が実をつけた。
3月に、屋久島の人3名が来帰した。
5月に、屋久島の人7名が来た。
7月に、また屋久島の人20名が来た。合わせて30名になる。みな朴井に住まわせたが、帰還するまでに全員が死んでしまった。
7月に、新羅が奈末竹世士を派遣して、仏像を貢上した。
推古天皇二十五年夏六月(617年6月)、出雲国が「神戸郡に、大きさが缶(ほとき。湯や水を入れる口が小さく銅の丸い瓦器)ほどもある瓜がなりました」と奏上した。
この年に、五穀がよく実った。
推古天皇二十六年秋八月癸酉朔(618年8月1日)、高麗は使者を派遣して、地方の産物を貢上した。そして、「隋の煬帝が、30万人の軍衆を興して我が国を攻めましたが、逆に我が国に破れました。そのため、俘虜貞公と並の2人と鼓吹・弩・抛石の類を10品、それに地方の産物・らくだ1頭とを合せて、献上いたします」と申しあげた。
この年に、河辺臣〔名を欠く〕を安芸国に遣わして、船を造らせた。山で船の用材を探し、良い材木があったので、命じて伐ろうとした。その時ある人が、「霹靂の木(かむとけ。よく落雷する木)です。伐ってはなりません」と言った。河辺臣は「雷神といえども、どうして天皇の命令に逆らえようか」と言って、多くの幣帛を供えて祭り、人夫を遣ってその木を伐らせた。すると大雨が降って、雷鳴が轟き、雷光が走った。
そこで河辺臣は剣の柄を握って、「雷神よ、人夫を傷つけるな。我が身を傷つけよ」と言い、空を仰いで待った。10回あまり落雷したが、河辺臣を傷つけることはできなかった。そしていると小さな魚が樹の枝の間に挟まったので、その魚を取って焼いた。こうしてついにその船を造りあげた。
二十七年夏四月己亥朔壬寅(619年4月4日)、近江国が「蒲生川に、人のような形をした物があります」と奏上した。
7月に、摂津国で、ある漁夫が網を堀江に沈めておいたところ、なにかが網にかかった。その形は幼児のようであったが、魚でもなく、人でもなく、名付けようがなかった。
二十八年秋八月(620年8月)、屋久島の人2名が伊豆島に漂着した。
10月に、細石を檜隈陵(欽明天皇陵)の上に葺いた。そして陵の周囲に土を積んで山を造り、氏ごとに大柱を土山の上に建てるよう命じた。その時、倭漢坂上直の建てた柱は、たいそう高かった。そこで当時の人は、大柱直と呼んだ。
十二月庚寅朔(12月1日)、天に赤い気が現れた。長さは一丈余りで、形は雉の尾に似ていた。
この年に、厩戸皇子と島大臣(蘇我馬子)は協議して、天皇記と国記、臣・連・伴造・国造・百八十部、それに公民たちの本記を記録した。


挿絵:茶蕗
文章:くさぶき


日本書紀「推古天皇(7)」登場人物紹介

<厩戸皇子>
聖徳太子。推古天皇朝の皇太子にあたる。
<推古天皇>
第33代天皇。
<蘇我馬子>
島大臣。推古天皇朝の大臣。