山階寺で執り行われている維摩会の由来と変遷について。
今は昔、山階寺(興福寺)では維摩会が行われている。維摩会とは、維摩経を講ずる法会であり、大織冠内大臣(藤原鎌足)の忌日法要である。
大織冠はもとの姓を大中臣氏という。天智天皇の御代に藤原の姓を賜って、内大臣になった。10月16日に亡くなったことから、10月10日〜16日の間にこの法会を行う。この法会は、わが国の多くの法会の中でも特に重要なものであり、震旦(中国)にまで知られている。
この法会の起源はこうだ。むかし藤原鎌足が、山城国宇治郡山階郷末原の家で病にかかり、長らく患って朝廷にも出仕できずにいた。その当時、百済国からきた尼がいた。名を法明という。
その尼が鎌足のところに訪れた時、鎌足は尼に「あなたの国に、このような病にかかった者はいましたか」と尋ねると、尼は、「ございます」と答えた。「それはどのようにして治したのですか」と聞くと、尼は「その病は、薬の力でも、医師でも治すことはできませんでした。ただ、維摩居士の像を造り、その御前で『維摩経』を読誦したところ、即座に平癒いたしました」と答えた。
鎌足はこれを聞いてすぐに邸内に仏道を建て、維摩居士の像を造り、『維摩経』を講じさせた。そして、その尼を講師とした。はじめの日、まず問疾品を講じたところ、鎌足の病気はすぐに平癒した。鎌足はこれをたいへん喜び、尼を拝し、翌年から長らく毎年この法会を行っていたが、鎌足が亡くなってからは、これが途絶えてしまった。
鎌足の息子である淡海公(藤原不比等)は、父の跡を継いだとはいえ、まだ若年のうちに父が亡くなったため、その講のいきさつを知らなかった。次第に出世して大臣の位につくと、手の病気にかかった。何のたたりかと占ってみると、父親の代に行っていた法会を絶やしたため、ということだった。このため、『維摩経』を講ずる法会を再び行うようになった。当時のすぐれた知者の僧を講師にむかえ、あちこちの寺で丁重に営んだ。そののち、京都にある山階の末原の家を移築して、奈良の京に寺を建てたが、寺の名はやはり山階寺と呼ばれた。
かの維摩会は、その山階寺で行われる。承和元年(834年)から始まり、その後長らくこの山階寺で行われている。例年の公事として、藤原氏出身の弁官を勅使に遣わして執り行われ、現在に及んでいる。また諸寺諸宗の学者を選び、この法会の講師とし、毎年その賞として僧綱に任ずることが定例になっている。聴衆にも、諸寺諸宗の学者を選出して列席させた。また藤原氏の上達部以下、五位の者までが、寝具を縫ってこの法会の僧の布施とした。
すべてこの法会の儀式は、荘厳に行われるばかりでなく、講経や論義のすばらしさは、その昔の浄名居士の方丈の室(維摩居士の居室)そのものであった。仏前の供え物や僧への供え物は、みな大国(中国)の食膳にならい、他の寺では真似できぬよう盛大に営まれた。わが国で仏法が末長く栄え、王法の礼儀を敬うのは、この法会だけである。
そういうわけで、公私ともにこれを尊ぶことは並々でない、と語り伝えているということだ。
挿絵:雷万郎
文章:くさぶき
今昔物語集「於山階寺維摩会語」登場人物紹介
<大職冠>
藤原鎌足(中臣鎌足)。藤原氏の始祖。
<淡海公>
藤原不比等。鎌足の息子。