隋の使者・裴世清の帰国にあたり、天皇は再び小野妹子らを派遣し、煬帝への信書を託す。


 辛巳(11日)に、裴世清が帰国した。そこで再び小野妹子を大使に、吉士雄成を小使、福利を通訳として、隋の客人たちの随伴に遣わした。天皇は煬帝に、以下のような訪問の挨拶を表した。
「東の天皇が謹んで西の皇帝に申しあげます。使者・鴻臚寺の裴世清一行が来て、長年の思いがまさに解けました。季節は秋で、涼しくなりましたが、皇帝におかれましてはお変りございませんか。ご清祥のことと存じます。こちらも変りはございません。このたび大礼の蘇因高と大礼の乎那利らを遣わします。簡単ではありますが、謹んでご挨拶申しあげます、敬具」
 この時、隋に遣わした学生は、倭漢直福因・奈羅訳語恵明・高向漢人玄理・新漢人大国、学問僧は、新漢人日文・南淵漢人請安・志賀漢人慧隠・新漢人広済ら、合せて8人である。
 この年に、新羅人が多く来朝した。

 推古天皇十七年夏四月丁酉朔庚子(609年4月4日)、筑紫大宰が「百済の道欣・恵弥を首長とした僧10人、俗人75人が、肥後国の葦北の港に停泊しています」と奏上した。そこで、難波吉士徳摩呂・船史竜を遣わして、なぜ我が国に来たのかを尋ねさせてた。
「百済王の命令で呉国に遣わされましたが、呉国にて戦乱があり、入国することができません。そこで再び本国に引き返そうとしましたが、たちまち暴風に遭って、海を漂流していました。しかし、とても幸運なことに、聖帝の辺境の港に漂着することができて喜んでいます」と答えた。
 五月丁卯朔壬午(5月16日)、徳摩呂らが復奏した。天皇はすぐに徳摩呂と竜の二人を筑紫に引き返させ、百済人たちの伴として本国に送り届けた。対馬に着くと、仏僧ら11人はみなここに留まりたいと請願した。そこで上表文を奉って倭国に留まることとなり、元興寺に住まわせた。
 9月、小野妹子が隋から帰国した。通訳の福利は帰らなかった。
 推古天皇18年春三月(610年3月)、高麗王は僧の曇徴・法定を貢上した。曇徴は五経に通じており、よく絵の具や紙墨を作り、そのうえ碾磑(てんがい。水車を利用した臼)も作った。碾磑の製作は、このときに始まったものと思われる。
 7月、新羅の使者・沙㖨部奈末竹世士と任那の使者・㖨部大舎首智買が、筑紫に到着した。
 9月、天皇は使者を遣わして、新羅と任那の使者を召した。
 冬十月己丑朔丙申(10月8日)、新羅と任那の使者が都に到着した。この日、額田部連比羅夫を新羅の客に、膳臣大伴を任那の客を迎えるための飾馬の長として、阿斗の川辺の館に宿泊させた。
 丁酉(9日)、客人一行は朝廷で拝謁した。天皇は、秦造河勝(秦河勝)・土部連菟を新羅の案内役に、間人連塩蓋・阿閉臣大籠を任那の案内役とした。二人は客人を連れて南門から入り、庭に立った。その時、大伴咋連・蘇我豊浦蝦夷臣(蘇我蝦夷)・坂本糠手臣・阿倍鳥子臣が共に席を立ち、進み出て庭に伏した。両国の客人たちはそれぞれ再拝して、使者の趣旨を奏上した。すると4人の大夫が進み出て、謹んで大臣(蘇我馬子)に申し伝え、大臣は席を立って、庁舎の前に出てこれを聞いた。そうして諸々の客にそれぞれに応じた禄を与えた。
 乙巳(17日)、使者たちを朝廷で饗応した。河内漢直贄を新羅の客、錦織首久僧を任那の客の相伴役とした。
 辛亥(23日)、儀礼が終わると客人たちは帰還した。


挿絵:歳
文章:くさぶき


日本書紀「推古天皇(5)」登場人物紹介

<推古天皇>
第33代天皇。
<小野妹子>
蘇因高。遣隋使として海を渡るのは二度目。