中宮の意向で、宮中一の美人、小督は恋人と別れ帝の側へ上がるが、それを良く思わない平清盛は……
高倉帝が葵前への恋慕の思いに沈んでおられるのをお慰めしようと、中宮平徳子の御方より、小督殿と申す女房が差し向けられた。
この女房は桜町の中納言藤原成範卿の娘で、宮中一の美人にして琴の名手である。冷泉大納言藤原隆房がまだ少将だったころに見初めた女房であった。少将ははじめは歌を詠み文を尽くし、恋い慕い悲しんだけれど小督がなびく気色もなかったが、その情熱にほだされたのだろうか、ついには彼になびいた。けれども今は帝に召されてしまい、なすすべもなく悲しみに暮れ、心ならずも別れなければならずに流れる涙には、袖が濡れて乾くこともない。
少将は遠くからでも小督殿の姿を見ることができるかもしれないと、常に参内された。彼女がいる局の辺り、御簾の辺りをあちらこちらと行き通り、立ち止まったり歩き回ったりなさったけれども、小督殿は「わたくしは帝に召された上は、少将様がいかに言おうとも言葉を交わすことも文を見ることもするべきではない」と、人づての情けの言葉すらもおかけにならなかった。
少将はもしかしたら返歌をくれるかもしれない、と一首の歌を詠んで小督殿のいらっしゃる御簾の内へ投げ入れた。
思ひかね 心はそらに みちのくの ちかのしほがま ちかきかひなし
(恋しい思いに耐えかねて、その心は空に満ちるほどです。遥か陸奥のちかの塩竃ではないが、近くにいるあなたがその甲斐もなく遠く感じられます)
小督殿はすぐに返事をしたいと思ったけれども、帝の手前、後ろめたく思われたのだろうか、手に取って見ることすらしなかった。上童に取らせて中庭へ投げ捨てさせた。少将は薄情なことと恨めしく思ったが、人に見られたら、と空恐ろしく思われ、急ぎこれを取って懐に入れて立ち去った。それでも尚振り返って、歌を詠んだ。
たまづさを 今は手にだに とらじとや さこそ心に 思ひすつとも
(手紙を今は手に取ってもくださらないということですか。それほどに、私を思い捨てられたのか)
今はこの世で会えることも難しいので、生きて物思いに沈むよりも死んでしまおうとのみ願われた。
入道相国平清盛はこれを聞き、中宮といっても自分の娘であり、冷泉少将も娘婿である。小督殿に二人の婿を取られて憤慨し、
「いやいや小督がいる限りは世の中は良くなるまい。召し出して消してしまおう」
と宣った。
小督殿はそれを漏れ聞いて、我が身のことはどうなっても良いが帝の為を思うと心苦しいと思って、ある暮れ方に内裏を出て、行方も知らず姿を消した。
主上のお嘆きは尋常でなかった。昼は夜のおとどに引きこもられて涙に咽び、夜は南殿に出御して月の光をご覧になって心を慰められた。
入道相国はこれを聞き、
「帝は小督のために心を沈ませておられるのだな。そういうことならばこちらにも考えがある」
と言って、身の回りのお世話をする女房達も参らせず、参内する臣下をもお憎みになったので、入道の権威に憚って宮中へ通う人もいなくなった。禁中には不吉な空気が漂っていた。
挿絵:黒嵜
文章:水月
平家物語「小督(前編)」登場人物紹介
〈小督殿〉
桜町の中納言藤原成範の娘。信西の孫。冷泉隆房の恋人であったが、高倉帝の側へ召し出された。
〈冷泉隆房〉
藤原隆季の長男。正室は平清盛の娘。
〈高倉帝〉
第80代天皇。後白河法皇の第7皇子。中宮は平清盛の娘、徳子。
〈平清盛〉
入道相国。平家の棟梁。宮中で絶大な権力を振るう。