笠置寺の縁起。大友皇子はある日、狩りに出た先で不思議な出来事に遭遇する。


天智天皇御子始笠置寺語

 今は昔、天智天皇の御代に、一人の皇子(大友皇子)がいた。この皇子はたいへん聡明で学問にすぐれ、文の道をとくに好んでいた。我が国で詩や賦(いずれも漢文体の韻文)を作るのは、この皇子の時から始まったのである。また、狩猟を好み、猪や鹿を狩ることを日常としており、いつも弓矢を帯びて軍勢をひきつれては、山や□□〔欠字〕をとりまいて獣を狩らせた。
 ある時、山城国相楽郡賀□〔欠字〕郷の東にある山の近くへ狩りにでかけた。山の斜面になった所を、皇子は駿馬に乗り、鹿を追って駆け上っていった。鹿が東へ逃げたので、ご自分はその後ろについて走らせ、鐙(あぶみ)を踏みしめて弓を引いたところ、鹿は突然消えてしまった。倒れたのだろうかとあたりを見たが、鹿の姿はない。
「さては崖から落ちたのか」と思い、弓を投げ捨てて手綱を引いたが、走っている馬は急には止まらない。なんと、鹿ははるかに高い崖から転落していたのだ。皇子が乗っているこの馬は、走りすぎて鹿と同様に崖から落ちるところだったが、四つの足を一箇所に踏みとどめて、少し突き出した岩の突端に立ったのであった。
 馬を引き返させようにも場所がない。馬から降りようにも、鐙の下ははるか深い谷になっており、降りる足場もない。馬が少しでも身動きをすれば、谷に落ちてしまうだろう。谷を見下ろすと十余丈ばかりもある下□〔欠字〕である。目まいがして谷底も見えない。西も東もわからなくなり、気が遠くなり、心臓は早鐘を打つようで、いまにも馬とともに死んでしまいそうであった。
 皇子は嘆いて、「もしここに山の神々がおいでになら、どうかわたしの命をお助けください。お助けくださったら、この巌(いわお)のそばに弥勒菩薩の像をお刻みいたします」と祈願した。するとたちどころにお験(しるし)があり、馬は後退して広い場所へ立った。
 そして、皇子は馬から降りて泣く泣く伏し拝むと、のちに来て探す時の目印にしようと、かぶっていた藺笠(い草の茎で編んだ笠)をそこに置いて帰っていった。その後、一日二日たってから、置いてきた笠を目印にそこへやって来た。山の頂上から降り、岩場の中ほどをぐるぐると回って、麓に着く。上の方を見上げるが、目も及ばぬほどで、まるで雲を見るかのようである。皇子は思い悩んだ。山の斜面の露出した岩肌に、弥勒菩薩の像を彫ろうとしても、とてもできそうにない。
 その時、天人がこれを哀れみ、皇子を助けてたちまちに仏像を彫り刻んだ。その間、にわかに黒雲が空を覆い、夜のように暗くなった。暗い中で、岩石のカケラががたくさん飛び散る音がした。しばらくすると、雲が去り霞も晴れて明るくなった。皇子が巌の上を仰ぎ見ると、弥勒菩薩の像があざやかな姿で彫られていた(笠置寺の本尊・弥勒磨崖仏)。

 皇子はこれを見て、泣く泣く敬い、礼拝して帰っていった。それから後、これを笠置寺(かさぎでら)とよぶようになった。笠を目印に置いたので笠置(かさおき)とすべきであるが、それを言いやすく言葉が転じたため、かさぎ、という。
 まことに、末世においてまれにみる珍しい仏である。世の中の人は心から尊崇すべきである。「わずかでも足を運び頭を垂れる者は、必ず兜率天の内院に生まれ、弥勒菩薩がこの世に現れる際にまみえる□〔欠字〕を植えたい」と祈願すべきである。
 この寺は、弥勒菩薩の像を彫り出して後、だいぶ時が経った頃。良弁僧正という人が見つけて、その後ここでの修行が始まったのだと人々は言っている。その後、多くの堂を建て僧房を増設し、多数の僧たちが住んで修行するようになった、と語り伝えている。


挿絵:雷万郎
文章:くさぶき


今昔物語集「天智天皇御子始笠置寺語」登場人物紹介

<大友皇子>
天智天皇の第1皇子。