高倉天皇は中宮の女房に仕える女童を見初め、寵愛するが世間のそしりを恐れて彼女を遠ざける。
中でも憐れだったことは、中宮にお仕えする女房が召し使っている女童が思いがけず帝のお傍近くに参ることがあった。世にありがちな、かりそめのことではなくて、主上は常に彼女をお召しになった。本当にその御心ざしが深かったので、彼女の主である女房も彼女を召し使うことなく、却って女童のほうが主人であるかのように大切に扱った。
長恨歌伝には次のような一節がある。「その昔、流行り歌に歌われたことがある。『女を産んでも悲観することなかれ。男を産んでも喜ぶことなかれ。男は諸侯にも封ぜられないが女は妃になれる』と。そして楊貴妃は后に立てられたのだ」と。
「この人は女御、后ともなり、国母、女院とも仰がれることだろう。なんと幸せなことか」といって、その女童の名を葵前といったので、内々には葵女御などとささやかれた。
主上はそれをお聞きになり、その後は葵前をお召しにならなかった。御心が冷めたのではない。ただ、世のそしりを憚ってのことである。そういうことであったので、物思いに沈まれがちで、ご寝所にばかり御籠りになっておられる。
時の関白、松殿こと藤原基房は、お心苦しいことがおありなのだろう、お慰め申し上げよう、と言って急ぎ参内し、「さようにお心にかかっておられるのならば、何の不都合がございましょう。件の女房を早くお召しなされませ。身分をお尋ねになることはございません。すぐにでも基房の猶子にいたしましょう」と奏上すると、主上は「いや何。そなたの申すことは尤もではあるが、皇位を退いた後であればそのようなこともままあるらしいが、現に在位の時にそのようなことをすれば、後の世にそしりを受けるだろう」と仰り、お聞き入れにならなかった。関白殿は力及ばず、涙をおさえて御退出された。その後、主上は緑の薄様で特に色濃い紙に古歌を一首、思い出されてお書きになった。
しのぶれど いろにい出にけり わがこひは ものや思ふと 人のとふまで
この御手習を冷泉少将隆房が頂戴して件の葵前に渡すと、彼女は顔を赤らめ「気分が悪くなりました」と言って里へ帰り、病に臥すこと五、六日でついに死んでしまった。君主の一日の寵愛のために妾が百年の身をあやまる、とはこのようなことをいうのであろうか。昔、唐の太宗が鄭仁基の娘を元観殿に入れようとなさったのを魏徴がかの娘はすでに陸氏と婚約しておりますと諫めたのでお召しになるのをやめられた故事と少しも違わぬお心ばせである。
挿絵:ユカ
文章:水月
平家物語「葵前」登場人物
<葵前>
高倉天皇の中宮、平徳子の女房に仕える女童。思いがけず高倉天皇の寵愛を受ける。
<主上>
高倉天皇。
<藤原基房>
藤原忠通の次男。関白。