新羅と任那の間で戦が勃発したことにより、推古天皇は直ちに任那を救おうとする。
推古天皇(2)
八年の春如月(2月)に、新羅と任那が相互に攻め入る。天皇、任那を救わんと欲する。この年、境部臣に命を仰せて大将軍に任ずる。穂積臣を副将軍とする。並びに名を欠く。
そうして一万余りの軍衆を率いて、任那のために新羅を撃つ。ここに、まず新羅を目指して、舟で向かう。ようやく新羅に到着し、五つの城を攻めて突破する。ここに、新羅の王、畏まって白い旗を挙げて、将軍の
印の旗のもとに近寄り立つ。多多羅・素奈羅・佛知鬼・委陀・南迦羅・阿羅羅、六つの城を割いて、従うように要請する。時に、将軍、共に話し合って曰く「新羅、罪を知って従う。それ以上の攻撃をするのは良案ではないだろう」という。そこで奏し上げる。ここで天皇、また、難波吉師神を新羅に遣わす。また、難波吉士木蓮子を任那に遣わす。並びに事の状況を調査させる。この時、新羅・任那、二つの国、使いを遣わせて朝貢する。この際、申し文を奉って曰く、
「天上(あめ)に神まします。地に天皇まします。この二柱の神を除いては、何処にか畏きことがあろうか。今より以降、互いに攻めるはないはずだ。また、船舵を乾さず、年ごとに必ず朝貢しよう」
そこで使いを遣わして、将軍を召し返す。将軍等、新羅よりやってくる。すると新羅、再び任那に侵攻する。
九年の春如月に、皇太子、初めて宮を斑鳩に建てなさる。弥生の甲申の朔戊子(5日)に、大伴連齧を高麗へ、坂本臣糠手を百済へそれぞれ遣わし、詔を出して宣うことには「速やかに任那を救え」と。
夏皐月に、天皇、耳梨の行宮にいらっしゃる。この時に大雨が降る。川の水が嵩を増し、宮の御庭に満ちる。秋長月の辛巳の朔戊子(8日)に、新羅の間謀(うかみ)の者迦摩多、対馬に到着する。捕らえらて奉られる。上野に流す。
冬霜月の庚辰の朔甲申(5日)に、新羅に侵攻することを話し合う。十年の春如月の己酉の朔日に、來目皇子をして新羅を撃つ将軍とする。諸々の神祭に携わる人々及び国造・伴造等、あわせて軍衆二万五千人を授ける。
夏卯月の戊申の朔日に、将軍來目皇子、筑紫に到着なさる。その後進み嶋群に駐在して、大船を集めて兵糧を運ぶ。水無月の丁未の朔己酉(3日)に、大伴連囓・坂本臣糠手、共に百済より辿り着く。この時に、來目皇子、病に伏して討つことを果たせず。
冬神無月に、百済の僧観勒が来る。その際に暦の本(ためし)及び天文地理の書(ふみ)、併せて遁甲方術(一種の占星術)の書を奉る。この時に、書生3,4人を選び、観勒のもとで学ばせる。陽胡史の祖玉陳、暦法を習う。大友村圭高聰、天文遁甲を学ぶ。山背臣日立、方術を学ぶ。皆学んで業を成す。潤神無月の乙亥の朔己丑(15日)に、高麗の僧雲聰・僧隆、共に来朝する。
十一年の春如月の癸酉の朔丙子に、來目皇子、筑紫にて逝去なさる。
ただちに駅使を遣わして奏し上げる。ここに天皇、聞いて大層驚き、皇太子・蘇我大臣を召して、詔を出して曰く、「新羅を討つ大将軍來目皇子が逝去した。その大きな事に臨んで遂げることはできなかった。甚だ悲しく思う」と。その後、周芳の裟婆に安置される。そこで土師連猪手を遣わして、殯の事を担わせる。故に猪手連の孫を裟婆連という。後に河内の埴生山の丘の上に埋葬される。
夏卯月の壬申の朔日に、さらに來目皇子の兄當摩皇子を新羅を討つ将軍に任ずる。秋文月の辛丑の朔癸卯(3日)に、當摩皇子、難波より船で発つ。丙午(6日)に、當摩皇子、播磨に到着する。ちょうどその頃、皇子の妻舎人皇女、赤石にて逝去される。そのため赤石の檜笠丘の上に埋葬する。すぐに當摩皇子は引き返した。遂に討つことはなかった。
冬神無月の己巳の朔壬申(4日)に、小墾田宮(おはりだのみや)に遷る。霜月の己亥の朔日に、皇太子、諸々の大夫に対して語るに、「我、尊き仏の像(みかた)を有している。誰かこの像をもらい受けて拝んでほしい」と仰る。その時、秦造河勝が進み出て曰く、「やつかれに拝ませていただきたい」と。そこで仏像を授かる。このことから蜂岡寺(広隆寺)を建立する。この月に、皇太子、天皇に申し上げて、大楯及び靫(ゆぎ)―これを由岐という―を作り、また旗に描く。
挿絵:あんこ
文章:松
日本書紀「推古天皇(2)」登場人物紹介
<推古天皇>
第33代の天皇。欽明帝の第3皇女。名は幼少期が額田部、のち豊御炊屋姫。
<境部臣>
飛鳥時代の豪族で、蘇我氏の一族。
人物は不明だが、馬子の弟境部摩理勢ではないかといわれている。
<來目皇子>
用明天皇の皇子。母は皇后の穴穂部間人皇女。
聖徳太子(厩戸皇子)とは同母弟の関係にあたる。
注釈
任那:みまな。古代朝鮮半島にあったとされる大和政権の出先機関。
『日本書紀』にその名が見られる。
驛使:律令制時に、駅馬や駅家の利用を許可された公用の使者。