頼朝追討の為に、過酷な行軍の末に駿河にまで辿りついた平家軍は、源氏軍の規模の大きさに恐怖で慄き、水鳥の羽音ですら源氏軍の進軍と間違え、平家軍の兵は逃げだしてしまう。
さて、頼朝追討へ向かった人々は、九重の都を立ち、福原からは遠い東国へと赴いていた。
道中は険しく、無事に都へと戻ることも危ぶまれる程で、ある時は野原の露の上で眠ることや、高山の苔の上で夜を明かし、いくつもの山川を越えること幾日。都を立ち十月十六日にもなった頃、ようやく駿河国清見が関にたどり着いた。都を出た時は三万余騎だった軍勢も道中の国々で兵を召し上げて、今は七万余騎を越えました。
先陣は蒲原、富士川に進み、後陣は手越、宇津に留まっている。
大将軍権亮少将維盛は侍大将上総守忠清を召喚し、「維盛の考えでは、足柄を越えて、関東で戦をしようと思う」とはやりたてた考えを打ち明けたが、しかし上総守は「福原を出る時に、清盛入道殿が『戦は忠清に任せるように』と仰っていたでしょう。関東八か国の兵が皆、兵衛佐(頼朝)に付き従ったということならば、手勢は何十万騎もいるはずです。味方の手勢は七万余騎も集まったとは言っても、道中の国々からの臨時に集めてきた武者達ばかりな上、馬も人も今回の行軍で疲労が溜まっているはずです。それに、招集をかけた伊豆や、駿河の軍勢もまだ来ていないので、到着を待った方がよいでしょう。」と言うので、しばらく留まることになった。
そのうちに、兵衛佐(頼朝)は足柄の山を越えて駿河国の黄瀬川に着陣してしまった。甲斐国や信濃国に潜んでいた源氏の者達が駆けつけ、敵本陣に合流した。
浮島が原にて勢揃えがあったが、全騎で二十万騎と記した。
常陸源氏の佐竹太郎の雑色が主の使いとして手紙を持って京へとのぼるのを平家の先陣上総守忠清が捕まえて所持している手紙を奪い内容を検めてみるとそれは一見して女房の所への手紙であった。この手紙は差し支えないだろうと雑色に返してやり、「兵衛佐(頼朝)殿の軍勢はどれほどなのか」と尋ねると、雑色は「おおよそ八日か九日程かかる道のりにびっちりと軍行が続き、野も山も海も河も武者でいっぱいです。下郎の私は四五百か千までならば数えられますが、それ以上は数えられないので、多いのか少ないのかわからないです。昨日、黄瀬川でなにやら他の者が申すには「嗚呼、源氏の御軍勢二十万騎」と申しておりました」
上総守はこれを聞いて、「総大将(宗盛)の御心がのんびりしていたのが悔しい。もう一日でも軍を先に進めてくださっていたら、足柄の山を越えて、関東八か国においでなられていたならば、畠山の一族の大庭兄弟が馳せ参じていたでしょう。この者たちが来ていれば、関東の者たちは皆、平家に従ったことでしょう。」と後悔したが、今さら言っても仕方ない。
また、大将軍権亮少将維盛は東国の案内者として、長井の齋藤別当実盛を従えて「やあ実盛、貴方ほど腕の立つ強弓の精兵は、関東八か国中にどれほどいるだろうか」と問うと、齋藤別当は嘲笑って「それでは、貴方は実盛を大矢だと思っているのですか。並みの者と同じたった十三束(矢の大きさ)の矢を扱っています。実盛程の腕前の者は関東八か国にはいくらでもいます。大矢と称される者達は十五束以下の矢を扱う者はおりません。弓も力の強い者が五、六人の人数をかけて張るのです。こういった屈強な兵が弓を射れば、鎧を二、三両も重ねていても貫くことできるでしょう。大名が一人と言うのは、勢が少ないと言っても、五百騎以下のことはありません。馬に乗れば、落ちることはなく、悪路を駆けても、馬を倒したりしない。また、関東武者の戦は親が討たれようが、子が討たれようがその屍を乗り越えて、乗り越えて戦うのです。西国の戦というものは、親が討たれれば供養し、忌が明け寄せて、子が討たれると悲嘆にくれて寄らない。兵糧米がなくなれば春に田んぼを作り、秋に収穫してから寄せ、夏に暑いから厭だと言い寄らず、冬は寒いから厭だと言い寄らない。東国ではそんなことはありません。
甲斐・信濃の源氏達は富士周辺の土地のことをよく知っております。富士の裾より迂回して背面へ移動しましょう。
こういった内容を話したのは、決して貴方を臆させようという意図で話したのではありません。
戦は軍勢の数だけが全てではありません。計略によって勝敗が決まると言い伝えております。実盛は此度の戦にて生き延びて、再び都の地を踏もうとは思っていません。」とおっしゃったので、それを聞いた平家の兵達は皆、うちふるえおののいた。
そのうちに十月二十三日となった。明日は、源氏と平家の軍勢が富士川にて矢合わせをすると決めていたのだが、夜になって平家の陣から源氏の方を見渡せば、伊豆、駿河の人民百姓らが戦になることを恐れて、野に逃げ込む者や山に隠れる者、あるいは舟に飛び乗って海河へと逃れ、水上で煮炊きをする営みに使われている火の灯りを平家の兵が見て「ああ、夥しい数の灯りは源氏の陣の灯りだろう。
本当に野も山も海も川も敵でいっぱいなんだなぁ。どうしたらいいだろうか」と慌て始めた。
その夜は夜半頃に、富士川の近くの沼で群れていた水鳥どもがなにかに驚いて、一気にぱっと飛び立っていく羽音が、大風や雷などのように聞こえ平家の兵達は「ありゃあ、源氏の大軍がやってきたんだ。齋藤別当が言う様に、背後に回っているはずだ。ここで取り囲まれてはかないっこない。ここは退いて、尾張川、洲俣を防ぐぞ」と言って、とる物も取らず、我先にと、離れて行った。
あまりにも慌てふためいたので、弓を手にした者は矢を見つけられず、矢を手にした者は弓を見つけられないほどです。他人の馬に自分が乗り、自分の馬には他人が乗るような混乱ぶりだった。
さらにある者は杭に繋いである馬に跨り駆けるも、慌てた為に繋いである轡を解き忘れ、杭の周囲を際限なくぐるぐると回る。
近場の宿場から喚んだ遊女達は、逃げ惑う兵達によって、或者は頭を蹴り割られ、また或者は腰を踏み折られ、喚き叫ぶ者の声が多かった。
翌二十四日の午前六時頃、源氏の大軍二十万が富士川に押し寄せて、天にも大地にも響き轟くほどに勝鬨の声を三度もあげた。
挿絵:ユカ
文章:ことは
平家物語「富士川(後)」登場人物紹介
<大将軍権亮少将維盛>
平清盛の嫡孫。重盛の嫡子。
<侍大将上総守忠清>
藤原忠清。伊藤忠清とも言う。維盛の乳父(めのと)でもあった。
<齋藤別当実盛>
元は頼朝の父に仕えていたが、敗戦後、平家方へ付き、関東に落ち延びていた。