信心を発した19歳の文覚は熊野へ入り、厳しい修行に明け暮れる。


文覚荒行

 かの頼朝という者は、去る平治元年12月の父左馬頭源義朝の謀反によって、14歳になった永暦元年3月20日に伊豆国蛭島に流されて20年余りの歳月を送っていた。
 長年大人しくしていたから何事もなく生きてこられたのに、今年になってどのような心で謀反を起こしたのかというと、高雄に住む文覚上人に勧められたからだということである。
 その文覚というのは、もとは渡辺党の遠藤左近将監茂遠の子、遠藤武者盛遠といって、上西門院に仕える衆の一人であった。
 19歳のときに信心を発して出家して、修行に出ようとしたのだが、
「修行というのはどれほどの大ごとであろうか、試してみよう」
 とのことで、六月の日の光が草木も揺るがず照りつける中で片山の藪に入り、仰向けに横たわって虻よ蚊よ蜂よ蟻よと毒虫どもが身体にひしと取りついて刺されたり食われたりするもののちっとも身体を動かさず、7日間までは起き上がらず8日目になってやっと起き上がった。
「修行はこれほどの大ごとであるか」
 と人に問えば、
「それ程のことをしてどうして生きておられようか」
 と言うので、
「ならば容易いことだ」
 と言って修行に出た。
 熊野へ参り那智ごもりをしようとしたが、修行の試しに音に聞こえた那智の滝にしばらく打たれてみようと滝のもとへ向かった。
 12月10日過ぎのことであったので、雪が降り積もり氷が張り、谷の小川の音もしない。嶺から吹く風は氷のようで、白糸のように落ちる滝の水は氷柱となり、辺り一面真っ白で周りの梢も見分けがつかぬほどであった。
 そのような中、文覚は滝壺へ降りて首まで水に浸かり、慈救の呪を唱えていたが、2、3日は堪えたものの4、5日にもなれば堪えきれずに浮き上がってしまった。
 数千丈もの高さから漲り落ちる滝であったので、どうしてそのまま堪えきれようか。ざっと押し落とされて、刀の刃のように鋭い岩角の中を浮いたり沈んだりしながら5、6町ほど流された。
 そのとき、可愛らしい童子が一人来て、文覚の左右の手を取って引き上げた。人々が不思議に思って火を焚いて暖めなどしたので、まだ定命を迎えていなかった文覚は程なく息を吹き返した。

 文覚は少し人心地がつき、大きな目を瞠って言った。
「私にはこの滝に三七日(21日間)打たれて慈救の三洛叉を唱えるという大願がある。今日はわずかに5日になる。7日も過ぎていないのに、一体何者が私をここへ連れてきたのだ」
 その様子を見た人は身の毛がよだち何も言うことができない。文覚はまた滝壺に戻り滝に打たれはじめた。
 滝行を再開して2日目に8人の童子がやって来て文覚を引き上げようとしたが、彼は散々に抵抗して上がろうとしない。
 3日目に、文覚はとうとう死んでしまった。
 滝壺を死で汚してはならぬとみずらを結った童形の天人二人が滝の上より降りてきて、文覚の頭の先から手足の爪先、手のひらにいたるまで暖かく芳しい御手で撫で下したので、夢心地で文覚は生き返った。
「いかなる人でいらっしゃれば、こうも私をあわれみ下さるのか」
 文覚は問うた。
「我々は大聖不動明王の御使いにして、こんがら、せいたかという二童子である。
 文覚がこの上もない願を興して勇猛な修行を計画しているので、行って力を貸すようにとの明王の命令で来たのだ」
 と二童子が答えたので、文覚は声を張り上げて
「それでは、明王様はいずこにおわします」
 と問うた。
「都率天に」
 二童子はそう答えて、雲の彼方へ昇っていった。
 文覚は手を合わせてこれを拝し奉る。
 それでは我が修行を大聖不動明王様までもがご存じでいらっしゃるのだと頼もしく思って、また滝壺に戻って滝に打たれた。大変めでたい瑞相があったので吹きすさぶ風も身にしまず、落ちてくる水もまるで湯のようだった。
 こうして21日間の大願をついに遂げたので、那智に千日こもり、吉野の大峰に三度、葛城山に二度、高野、粉河、金峯山、白山、立山、富士の嵩、伊豆、箱根、信濃の戸隠、出羽の羽黒と日本国中残すところなく修行をして回り、さすがに故郷が恋しくなったので都へ上ってくれば、凡そ飛ぶ鳥も祈り落とすほどの刃の修験者とその名を轟かせたのであった。


挿絵:708(ナオヤ)
文章:水月


平家物語「文覚荒行」登場人物紹介

<文覚>
俗名、遠藤盛遠。
もとは上西門院に仕える武士であったが19歳で出家し、熊野にて滝行に励む。