謁見の手土産を用意した荊軻一行は、いよいよ始皇帝暗殺に向かう。
咸陽宮(後)
それでも帰るわけにはいかず、荊軻一行は始皇帝の都の咸陽宮に到着した。燕国の地図を樊於期の首を持参した旨を伝えると、始皇帝は臣下に受け取らせようとした。荊軻が「人づてでは、けっしてお渡しできません。直接献上いたしたい」と奏上し、それではと宴の儀式を整えて、燕の使者を召した。
咸陽宮は、都の周囲が一万八千三百八十里に及ぶ。内裏は地面から三里の高さに盛土をして、その上に建てられた。長生殿や不老門があり、金で太陽をかたどり、銀で月をかたどって作られた。真珠・瑠璃・金を砂のように敷きつめている。四方には高さ四十丈の鉄の塀を構え、内裏の上にも同じように鉄の網を張ってあった。これは冥途の使いを中へ入れまいとするためである。
秋に飛んできた田の雁が、春に北国へ帰る際、この塀がじゃまになるため、雁門と名づけた門を塀に造り、その鉄の門を開けて雁を通した。その宮殿中でも、阿房殿という、始皇帝がいつも行幸して政治を行う御殿がある。高さは三十六丈、東西へ九町、南北へ五町ある。大床の下は、五丈の幢(はたほこ)を立ててもまだ届かぬほどに深い。上部は瑠璃の瓦で屋根を葺き、下部は金・銀で磨かれていた。
荆軻は燕の地図を持ち、秦舞陽は樊於期の首を持って、珠の階段を登った。内裏があまりに壮麗である見て、秦舞陽がわなわなと震えた。そのため秦の臣下が怪しんで、「舞陽には謀反の心がある。刑人は帝に近づけず、君子は刑人に近づくべきではない。刑人に近づくことはすなわち、死を侮ることである」と言った。
荆軻は引き返し、「舞陽に謀反の心など全くない。ただ、田舎の卑しい所にばかり慣れて、皇居のような場所に慣れていないため、動揺しているのだ」と言ったので、秦の臣下はみな鎮まった。そして、荆軻たちは王に近づいた。燕の地図と樊於期の首を目にかけるうちに、地図の入った箱の底に氷の如く冷光する鋭い剣が見えたので、始皇帝はすぐさま逃げようとした。
荆軻は王のお袖をむんずと掴み、剣を王の胸に当てた。もはやこれまでと見えた。何万という兵が庭にびっしり並んでいたが、王を救うこともできない。主君が反逆者に殺されようとしているのを、ただ悲しみあうばかりだった。始皇帝は「私にしばらく時間をくれ。死ぬ前に、最愛の后がひく琴の音をもう一度聞きたい」と言ったので、荆軻はしばらく殺すことを控えた。
始皇帝には三千人の后がいる。その中に花陽夫人という、すぐれた琴の名人がいた。この后の琴の音を聞いた者は皆、勇ましい武人の怒りも和らぎ、飛ぶ鳥も地上に落ち、草木もゆらぐほどであった。ましてや、死を目前にした皇帝に聞いていただくのはこれが最後と、泣く泣く弾いた琴の音は、さぞ興趣深かったことであろう。荆軻も首をうなだれ耳をすまし、謀反の心もほとんどゆるんでしまった。后は、さらに一曲奏した。
「七尺の屏風がどんなに高くても、躍り越えればどうして越えられぬことがあろう。一筋の絹布はたとえ強くても、引けばどうして切れぬことがあろう」と琴を弾く。
荆軻にはこの歌の真意が分からなかったが、始皇帝は理解した。袖を引きちぎり、七尺の屏風を飛び越えると、銅の柱の陰に逃げて隠てしまった。荆軻はいきり立ち、剣を始皇帝めがけて投げつけた。剣は、薬の袋を引っかけたまま、直径六尺の銅の柱を半分までも貫いた。荆軻はほかに剣を持っていなかったため、続いては投げなかった。始皇帝は引き返し、自分の剣を取り寄せると、荆軻を八つ裂きにした。秦舞陽も討たれた。
始皇帝は官軍を派遣して、燕の丹を討った。天がお許しにならなかったので、白虹は太陽を貫通せず、秦の始皇帝は逃れ、燕の丹はとうとう滅びてしまった。だから、今の頼朝もそれと同じようになるだろうと、平氏に追従する人々もいたということだ。
挿絵:歳
文章:くさぶき
平家物語「咸陽宮(後)」登場人物紹介
<荊軻>
太子丹の雇った刺客
<始皇帝>
秦最後の王であり、中国初の皇帝。
<太子丹>
燕国の皇太子。始皇帝に幽閉されていた。