物部氏と蘇我氏の抗争が大詰めとなり、馬子は諸皇子・群臣とともに挙兵する。
崇峻天皇(1)
泊瀬部天皇は天国排開広庭天皇(欽明天皇)の第12子である。母は小姉君といい、蘇我稲目の娘である。
用明天皇2年4月、橘豊日天皇(用明天皇)が崩御した。
5月、物部大連(物部守屋)の軍衆が三度示威の声を上げた。守屋はかねてから、他の皇子を退けて穴穂部皇子を天皇にしようと目論んでいた。彦人皇子などの皇位継承候補に替えて穴穂部皇子を擁立するため、密かに穴穂部皇子へ使いを送り「皇子と共に淡路で狩猟をしたいと思っています」と伝えた。しかしその謀は漏れた。
六月甲辰朔庚戌(6月7日)、皇位継承者がまだ決まらなかったため、蘇我馬子たちは炊屋姫を奉り、佐伯連丹経手・土師連磐村・的臣真噛に詔した。
「お前たちは兵を装備させてすぐに発ち、穴穂部皇子と宅部皇子を討て」と命じた。
この日の夜半、佐伯連丹経手らは穴穂部皇子の宮を取り囲んだ。そして衛士(宮廷護衛の兵士)がまず楼の上に登り、穴穂部皇子の肩を斬った。皇子は楼の下に落ち、傍らの家屋に逃げ込んだ。衛士らは灯りをともして皇子を討った。
辛亥(6月8日)、宅部皇子を討った。宅部皇子は宣化天皇の子で、上女王の父である。この皇子は穴穂部皇子と親しかったため、討たれた。
甲子(6月21日)、善信阿尼たちは馬子に「出家の道は戒律を基にしています。百済に行って、戒法を学びたいと思います」と言った。
この月に、百済の調(みつき)の使者が来朝した。馬子は使者に「この尼たちをそなたたちの国に連れて行き、戒法を学ばせてほしい。学び終えたら返してくれ」と言った。使者は「まず、私どもが帰国して王に申し上げましょう。遣わせるのはその後でも遅くはないでしょう」と返した。
7月、蘇我馬子は諸皇子と群臣に持ちかけ、物部守屋を討つことを策謀した。泊瀬部皇子・竹田皇子・厩戸皇子・難波皇子・春日皇子・蘇我馬子・紀男麻呂宿禰・巨勢臣比良夫・膳臣賀拕夫・葛城臣烏那羅は、共に軍隊を率いて進み、守屋を討とうとした。大伴連噛・阿倍臣人・平群臣神手・坂本臣糠手・春日臣は、共に軍兵を率いて、志紀郡から渋河の家に到着した。
物部守屋は自ら一族と奴軍(私兵)を率いて、稲城を築いて戦った。守屋は衣揩のエノキの木の股に登って見下ろし、まるで雨のように矢を射た。その軍勢は強豪で、家や野に満ちあふれた。対する皇子たちと群臣との軍衆は脆弱であったため、恐怖で三度退却した。
この時、厩戸皇子は束髪於額にして(古の人は、年が15〜16の間は束髪於額にし、17〜18の間は髪を分けて角子にした)、軍の後ろに従っていた。厩戸皇子は自分で状況を判断し「このままでは敗れてしまう。祈願しなければ勝つことはできないだろう」と言った。そうして白膠木(ヌリデ)を切り取ると、急いで四天王像を作り、頂髪に置き、誓願した。「いまもし敵に勝たせていただけたら、護世四王のために必ず寺塔を建立しましょう」
蘇我馬子大臣もまた誓願し、「諸天王・大神王たちよ、私を助け衛り勝利を与えてくださるなら、諸天と大神王とのために寺塔を建立し、仏法を広めましょう」と言った。誓い終わると、様々な武器を装備して進撃した。ここに迹見首赤檮は、物部守屋を木から射落して、守屋とその子らを討った。これによって守屋の軍はたちまち自壊し、軍兵はみな黒衣を着て変装し、広瀬の勾原で狩りをして散り散りになった。
これにより物部守屋の息子と一族は、ある者は葦原に逃げ隠れて姓名を変え、またある者は逃亡して行方知れずとなった。当時の人は、「蘇我大臣の妻は物部守屋大連の妹である。大臣はみだりに妻の計略を用いて、大連を殺したのだ」と語り合った。
乱を平定した後、摂津国に四天王寺を造った。物部守屋の奴(やつこ)の半分と邸宅を分けて、大寺の奴・田荘にした。田一万代を迹見首赤檮に与えられた。蘇我大臣もまた誓願したとおり、飛鳥の地に法興寺を建立した。
挿絵:雷万郎
文章:くさぶき
「崇峻天皇(1)」登場人物紹介
<物部守屋>
崇峻天皇御代の大連(連の姓をもつ氏から選ばれる最高執行官)
<蘇我馬子>
崇峻天皇御代の大臣(臣の姓をもつ氏から選ばれる最高執行官)
<厩戸皇子>
用明天皇の子。後の聖徳太子。