用明天皇は病に倒れ、仏教への帰依を群臣たちに議論せよと命じる。議論のさなか、謀略の密告を受けた物部守屋は中臣勝海と共に先手を打って軍をあつめ始める。
用明天皇二年(587年)夏四月乙巳朔丙午。(二日)
磐余の河上において新嘗祭を行った。この日、天皇は病を得て宮にお帰りになり、群臣はこれに従って宮へ戻った。
天皇は群臣らに詔して、
「朕は仏教に帰依したいと思っている。卿らはこのことについて議論せよ」
と仰った。
群臣は朝廷でこれを議論したが、物部守屋大連と中臣勝海連は天皇のご希望に反して、議論の中で言った。
「なぜ国津神に背いて他国の神を敬うことがあるのか。古来このようなことは聞いたこともない」
蘇我馬子宿禰大臣が言った。
「詔によりそって天皇をお助けするべきだ。誰がご希望以外の道など考えようか」
その時、皇弟皇子(穴穂部皇子)が豊国法師をつれて内裏に入ってきたが、守屋はこれを横目で睨み付けて、大いに怒った。
この時、押坂部史毛屎が駆け込んできて、守屋の耳元で言うことには、
「いま、他の群臣たちはあなたをおとしいれ、まさに退路を断とうとしています」
守屋はこれを聞いてすぐさま阿都(河内国渋川郡跡部郷)まで退き、軍のために人を集めた。勝海も屋敷で軍を集め、大連を助け従うべく動いた。太子(押坂)彦人皇子と竹田皇子の像を作り、像を傷つけることで死を祈る呪詛を行ったが、暫くして反乱の成功が難しいことをさとり、あきらめて彦人皇子に帰順すべく水派宮に赴いた。
彦人皇子の舎人・迹見赤檮は、勝海が彦人皇子の元から退出するところに行って、刀を抜き殺してしまった。
守屋は阿都の屋敷から、物部八坂・大市造小坂・漆部造兄らを馬子の元へ使いに出し、
「私は、他の群臣たちが私をおとしいれようと謀っていると聞いたのだ。だから、阿都まで退いたのだ」
馬子は土師八嶋連を大伴比羅夫連のところに使わして、守屋の言葉をそのままつぶさに述べると、比羅夫は手に弓矢と皮楯を持って、槻曲の馬子の屋敷に向かい、昼夜そのそばを離れずに馬子を守った。
天皇の病(疱瘡)はいよいよ重くなり、まさにお隠れになろうとしたときに、鞍部多須奈が進み出でて言った。
「私は陛下の御為に出家して、仏道を修めましょう。また、丈六の仏像と寺を建立しましょう」
天皇はこれに大いに感動し、悲しみ嘆かれた。
いま、南淵の坂田寺にある木造の丈六仏像と脇侍の菩薩像がこれである。
癸丑(四月九日)、天皇は大殿で崩御された。
秋七月甲戌朔甲午(二十一日)に、磐余池上陵に葬った。
挿絵:ユカ
文章:708(ナオヤ)
日本書紀「用明天皇(2)」登場人物紹介
<用明天皇>
第31代天皇
<物部守屋大連>
用明天皇御代の大連
<蘇我馬子宿祢大臣>
用明天皇御代の大臣
<穴穂部皇子>
欽明天皇皇子。物部守屋が皇位に推す。
<中臣勝海連>
大夫。物部守屋と同じく排仏派
<迹見赤檮>
押坂彦人皇子の舎人
<彦人皇子>
敏達天皇第一皇子。正式には押坂彦人皇子。太子の表記はこれ以外に見えず。
<竹田皇子>
敏達天皇皇子。