初代天皇以降遷都の例は多いが、特に優れた都である平安京を離れるのは実に恐れ多いことであった。人心の動揺は甚だしい。


旧都は実にすばらしい都であった。王城を守護する鎮守の神は都の四方に光をやわらげて現れ、霊験あらたかな寺々は高地低地に甍(いらか。瓦葺きの屋根)を並べて建てられ、すべての人民は煩うこともなく、五畿七道(日本全土)への交通の便もすぐれている。しかしいまは、辻々をみな掘り返してしまい、牛車などが容易に往来することもない。たまに行く人も、小さい車に乗り、回り道をしてようやく通ることができた。軒を連ねていた人々の住まいも、日が経つにつれて荒れてゆく。家々はとり壊して賀茂川や桂川に投げ入れ、筏に組んで浮べ、資財や雑具は船に積んで、福原へ運び下す。花の都がどんどんさびれて田舎になってゆくのは悲しいことだ。そして誰のしわざか、旧都の内裏の柱に、二首の歌が書かれていた。
 ももとせを 四かへりまでに 過ぎきにし 愛宕のさとの あれやはてなん
(百年を四回繰り返すほど続いてきた愛宕の里(平安京)も、このまま荒れ果ててしまうのであろうか)
 咲きいづる 花の都を ふりすてて 風ふく原の すゑぞあやふき
(咲き出る花のようであった花の都をふり捨てて、花を散らす風が吹く野原のような福原へ行く。その行く末はどうなるか、危ういことだ)
 同年6月9日、新都の起工を行うため、上卿として徳大寺の左大将実定卿(徳大寺実定)、土御門宰相中将通親卿(源通親)、奉行の弁官として蔵人の左少弁行隆(藤原行隆)が任ぜられた。彼らは役人たちを連れ、和田の松原の西の野を測量して、都を地割りした。一条から下、五条までは土地があったが、五条から下はなかった。担当の役人が帰って、このことを奏上する。ならば播磨の印南野がよいか、それとも摂津国の児屋野にすべきか、という公卿の会議が行われたが、うまくゆきそうには見えなかった。
 旧都はもはやさまよい出てしまった、新都はいまだ整わない。あらゆる人々は浮雲になったような、あてのない、憂き思いをしている。以前からここに住んでいた者は、土地を失って憂い、これから移り住む人々は、工事の煩わしさを嘆き合っている。何もかもただ夢のような事である。源通親はこう発言する。
「異国では、『三条の広路を開いて、十二の通門を立てる』という例がある。福原は五条まである都なのだから、内裏を建てられぬはずがない。ひとまず里内裏(仮の内裏)を造るべきだ」

 そしてそれは議決され、五条大納言邦綱卿(藤原邦綱)が臨時に周防国を受領し、その収入で里内裏を造進するようにと、入道相国が取り計った。邦綱は非常に裕福であったため、造営することは簡単であったが、やはり国家の財政的な負担や、民の困窮なしに済むものではない。
 さしあたっての重要事項である大嘗会(天皇が即位して初めての新嘗祭)など、やらなければならないことをさしおいて、このように世の乱れる中、遷都や内裏新築を進めるというは、全く不適当である。
 太古の聖帝(仁徳天皇)の御代には、内裏にそのまま茅を葺き、軒さえも整えず不揃いのままであった。民家の炊事の煙が乏しいのを見ると、定められた税も免除した。これはつまり民を慈しみ、国を救うためである。「楚の霊王は章花台という豪華な宮殿を建てたために庶民が離散し、秦の始皇帝は阿房宮を建てたために天下の乱が起こった」といわれている。屋根の茅を切り揃えず、切り出した垂木を削りもせず、船や車に装飾をつけず、衣服には文様もない、そんな質朴な世もあったというのに。そのため、唐の太宗は驪山宮を造ったが、民に負担をかけたことに遠慮したのであろうか。とうとうそこへ赴くことはなく、瓦に松が生え、垣根に蔦が茂るほど荒れ果ててしまった。それに比べると、福原はひどく違うものだと、人々は言い合った。


挿絵:黒嵜
文章:くさぶき


平家物語「遷都(後)」登場人物紹介

<入道相国>
平清盛。平氏の棟梁。
<藤原邦綱>
公卿。右馬権助である藤原盛国の子。