鎌足の発願から後の隆盛まで、後に興福寺と呼ばれる藤原氏の氏寺、山階寺の縁起について語る。


淡海公始造山階寺語

 今は昔、大織冠藤原鎌足が未だ内大臣にもおなりでなく、ただ人であらせられたときの話である。
 皇極天皇と申し上げる女帝の御代に、その御子にして後に天皇となる皇太子、中大兄皇子と心を一つにして蘇我入鹿をお討ちになるとき、大織冠鎌足は心の内で次のように祈念なさった。
「我は今日、重罪を犯して悪人を討とうと思う。思いが叶い悪人を討ち果たした暁には、その殺生の罪を贖うために丈六の釈迦像、その脇侍として二菩薩の像を造って一つの伽藍を建てて安置しよう」と。
 そののち、思いの通りに入鹿を討ち果たしたので、先の願かけの通りに丈六の釈迦像ならびに脇侍の二菩薩の像を造り、山階の陶原にある自邸に御堂を建ててそれを安置し、恭しく供養をなさった。のちに、大織冠内大臣に昇りつめた後にお亡くなりになったので、その嫡子である淡海公藤原不比等が父の跡を継いで朝廷にお仕えし、左大臣にまでおなりになった。

 さて、元明天皇と申し上げる女帝の御代、和銅三年という年に不比等は天皇に願い出てかの山階の陶原の家の御堂を■■(欠脱文)、今の山階寺のある場所に運んでお建てになった。
 同じく和銅年間、七年という年の三月五日、供養の儀式が行われた。天皇の勅願として執り行われたそれはこの上なく厳かで盛大なものであった。藤原の氏長者として淡海公がご出席なさった。
 講師、呪願師など法会の際に重要な役を勤める七人の僧のことを七僧というが、この法会の講師は元興寺の行信僧都という人である。法会を執り行った褒美として僧都には大僧都の位が授けられた。呪願師は同じ寺の善祐律師という人が勤めた。彼は小僧都となった。読師、三礼師などを勤めた残りの七僧は皆、僧綱の位をたまわった。その他の僧五百人は音楽を奏で、供養の儀式はとても言い尽くせないほどに荘厳なものとなったのである。
 そののち、順次諸々の堂舎や宝塔を造り加え、廻廊、門楼、僧房を造り重ねて多くの僧徒を住まわして大乗仏教の教えを学ばせ、法会を行うようになった。すべての仏法の栄える地、この山階寺に勝るところはない。もともと山階の地に造られた御堂であったので、ところは替わっても寺名を山階寺というのである。また、興福寺といわれるのも、この寺のことであるという。


挿絵:蓮むい
文章:水月


今昔物語集「淡海公始造山階寺語」登場人物紹介

<藤原鎌足>
またの名を中臣鎌足。645年、乙巳の変で中大兄皇子(後の天智天皇)と共に蘇我氏を滅ぼし、その後も中大兄皇子の側近として活躍した。臨終の際に大織冠の位と藤原姓を賜る。藤原氏の祖。
<藤原不比等>
淡海公。鎌足の子。本文には左大臣とあるが、彼の位は右大臣が正しい。奈良時代初期に絶大な権力を振るった。