治承四年六月、清盛は福原への遷都を断行する。
遷都(前)
治承4年(1180年)6月3日、帝(安徳天皇)が福原へ行幸することとなり、宮中は騒然としている。近ごろ遷都が行われそうだという噂は流れていたが、まさか今日明日のこととは思っておらず、これはどうしたことかと、身分の上下を問わず騒ぎ合っている。さらに、3日と決められていた予定が、もう1日繰り上げて、6月2日の出立となった。
2日の午前6時頃までに、早くも行幸の輿がさし寄せられた。帝は今年3歳でまだ幼いため、なにも分からぬまま輿に乗った。帝が幼少であるときは、母后が同乗するのが通例だが、このときはそうではなかった。帝の乳母であり、平大納言時忠卿(平時忠)の妻である帥の典侍(藤原領子)が同乗した。先帝の中宮である建礼門院(平徳子)、一院(後白河法皇)、高倉上皇も御幸した。摂政の藤原基通をはじめとして、太政大臣以下の公卿や殿上人は、我先にと供をした。
3日に帝は福原へと入った。池の中納言頼盛(平頼盛)の宿所が、皇居となる。
同月4日、住まいを皇居にした褒美として、頼盛は正二位に叙された。九条殿(藤原兼実)の子である右大将良通(藤原良通)は、頼盛に官位を追い越されてしまった。摂籙(せつろく。摂政の異称)の子息が、摂関・精華の家柄でない次男に位階の昇進を越されるのは、これが初めてのことだった。
さて、入道相国(平清盛)は、ようやく思い直して後白河法皇を鳥羽殿から開放して都へ入れたが、高倉宮(以仁王)の謀反によって再び憤激し、法王を今度は福原へと移した。四面に板塀をめぐらせ、入口を一つだけ開けた中に三間四方の板屋を造り、法王をそこへ押し込めた。守護の武士としては、原田の大夫種直(原田種直)だけが控えていた。人が容易に訪ね通うこともできなかったため、童部(こどもたち)は「籠の御所」と呼んだ。聞くだに忌まわしく、恐ろしいことであった。
後白河法皇は「今は政に携わろうとは思ってもいない。ただ山々寺々を修行し、心穏やかに過ごしたい」と言った。およそ平家の悪行はことごとく極まったといえる。
「安元(高倉天皇の御代)以降、多くの公卿や殿上人を流罪や処刑にし、関白を流し、自分の婿を関白にし、法皇を城南の離宮(鳥羽殿)に移し、第2皇子の高倉宮を討ち、そして今、最後に残った悪行がこの遷都である。なぜこのようにひどいことをなさるのであろうか」と人々は言った。
遷都に先例がないわけではない。神武天皇は、地神5代目の帝である彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の第4皇子で、その母は玉依姫といい、海神の娘である。神代12代の跡を継ぎ、人代の百王の祖とされる。辛酉の年、神武天皇は日向国宮崎郡で皇位を継ぎ、59年目の己未の年10月に東征して豊蘆原中津国にとどまり、大和国と名づけた畝傍山付近を選定して帝都を建設し、橿原の地を開拓して皇居を造った。これを橿原宮と名づけた。それ以来、代々の帝が都を他国や他所へ遷した回数は、30回を越え40回に及んでいる。神武天皇から景行天皇までの12代は、大和国の郡々に都を建て、他国へはついに遷さなかった。
ところが、成務天皇元年、近江国に遷り志賀郡に都を建てた。仲哀天皇2年には、長門国に遷って豊浦郡に都を建てた。その国のその都で仲哀天皇が崩御したため、后である神功皇后が帝位を受け継ぎ、女帝として鬼界が島・高麗国・契丹まで攻め従えた。国外での戦争を鎮定し帰国した後、筑前国三笠郡で皇子を生んだ。その場所を宇美宮という。口にするのも畏れ多いが、八幡神はこの皇子のことである。長じて即位してからは、応神天皇という。
その後、神功皇后は、大和国に遷って磐余稚桜宮にいた。応神天皇は同じ大和国の軽島明宮に住んだ。仁徳天皇元年、摂津国難波に遷って高津宮にいた。履中天皇2年、大和国に遷って十市郡に都を建てる。反正天皇元年、河内国に遷って柴垣宮に住んだ。允恭天皇42年、また大和国に遷って飛鳥の飛鳥宮にいた。雄略天皇21年に、同じ大和国泊瀬の朝倉に皇居を構えた。継体天皇5年に、山城国の綴喜に遷って12年、その後乙訓に宮を造った。宣化天皇元年、また大和国に遷って檜隈入野宮にいた。
孝徳天皇大化元年、摂津国長良に遷って豊崎宮に住んだ。斉明天皇2年、また大和国に還って岡本宮にいた。天智天皇6年、近江国に遷って大津宮に住んだ。天武天皇元年、さらに大和国に還って岡本の南の宮に住んだ。この方を浄見原の御門という。持統・文武2代の御代は、同じ大和国藤原宮にいた。元明天皇から光仁天皇までの7代は、奈良の都に住んだ。
ところが桓武天皇の延暦3年10月2日、奈良の京にある春日の里から山城国の長岡に遷って10年目の正月のことである。天皇は大納言藤原小黒丸、参議左大弁紀の古佐美、大僧都賢璟などを派遣して、この国の葛野郡宇多村を調べさせた。両人は天皇に奏上する。
「この地を見ると、左に青竜、右に白虎、前に朱雀、後に玄武という四神相応の立地です。帝都を定めるのにかなっています」
そこで、愛宕郡にある賀茂大明神に報告した。延暦13年12月21日、長岡京からこの平安京へ都をお遷しになって以後、天皇は32代、年月は380余年の春秋を送り迎えた。「昔から、代々の天皇は諸国方々に多くの都をお建てになったが、これほどすぐれた土地はない」といって、桓武天皇はことに執着し、大臣や公卿をはじめ諸道の才人に相談して、この都が長久であるようにと、土で八尺の人形を作り、鉄の鎧甲を着せ、同じく鉄の弓矢を持たせると、東山の峰に、都を見下ろすよう西向きに立てて埋めた。後世、この都を他国へ遷すことがあれば、そのときはこの都の守護神となれ、と約束した。そのため、天下の異変の前触れには、この塚が必ず鳴動する。将軍塚といって今もそこにある。
桓武天皇は、平家の先祖である。とりわけこの京を平安城と名づけて、平らかに安き京という字を書いている。平家が最も尊ぶべき都である。先祖の帝がそれほどまでに執心した都を、さしたる理由もなく他国他所へ遷そうというのはあきれたことである。嵯峨天皇の御代、先帝の平城天皇が尚侍の勧めによって世を乱された時(薬子の変)、今にもこの京を他国へ遷そうとしていたのを、大臣や公卿をはじめ諸国の人民が反対したため、遷さずにすんだのである。一天の君、万乗の主の帝でさえ遷せない都を、人臣の身である入道相国が遷したのは、まことに恐ろしいことである。
挿絵:雷万郎
文章:くさぶき
平家物語「遷都(前)」登場人物紹介
<入道相国>
平清盛。平氏の棟梁。
<後白河法皇>
第77代天皇。