皇后の広姫が薨じ、天皇は新しい皇后として額田部皇女を立てる。
敏達天皇4年 春正月丙辰朔甲子(575年1月9日)、天皇は息長真手王の娘・広姫を皇后に立てた。皇后は一男二女を生んだ。第一子は押坂彦人大兄皇子(麻呂子皇子)、第二子は逆登皇女、第三子は菟道皇女といった。
同月、天皇はひとりの夫人(みめ。妃に次ぐ地位)を立てた。春日臣仲君の娘で、老女子夫人(薬君娘)という。老女子夫人は三男一女を生んだ。第一子は難波皇子、第二子は春日皇子、第三子は桑田皇女、第四子は大派皇子という。次に采女(うねめ。天皇の側近くに仕える後宮の下級女官)から、伊勢大鹿首小熊の娘・菟名子夫人を立てた。菟名子夫人は太姫皇女(桜井皇女)と糠手姫皇女(田村皇女)を生んだ。
二月壬辰朔(2月1日)、昨年に吉備国へ遣わされていた馬子宿禰(蘇我馬子)は帰京して、屯倉のことを復命した。
乙丑(3月11日)、百済は使者を派遣して朝貢した。調(みつき)は例年より多かった。新羅がまだ任那を建てていないため、天皇は皇子と大臣に「任那のことを怠ってはならない」と詔した。
夏四月乙酉朔庚寅(4月6日)、吉士金子を新羅に、吉士木蓮子を任那に、吉士訳語彦を百済に派遣した。
6月、新羅は使者を派遣して朝貢した。調は例年より多かった。また多多羅・須奈羅・和陀・発鬼の4つの邑(むら)の調も合わせて進上した。
この年、天皇は卜者(うらべ)に命じて、海部王と糸井王の宅地を占わせた。卜占(ぼくせん)はいずれも吉だった。そのため天皇は、宮を訳語田にを造営した。これを幸玉宮という。
冬11月、皇后広姫が薨ずる。
敏達天皇5年 春三月己卯朔戊子(576年3月10日)、役人は天皇に、皇后を立てるよう請願する。天皇は詔し、豊御食炊屋姫尊(推古天皇)を皇后に立てた。皇后は二男五女を生んだ。第一子は菟道貝蛸皇女、第二子は竹田皇子、第三子は小墾田皇女、第四子は鸕鶿守皇女(軽守皇女)、第五子は尾張皇子、第六子は田眼皇女という。
天皇は菟道貝蛸皇女を東宮聖徳(聖徳太子)に、小墾田皇女を押坂彦人大兄皇子に、田眼皇女を息長足日広額天皇(舒明天皇)に、それぞれ嫁がせた。
敏達天皇6年 二月の庚辰朔(577年2月1日)、天皇は日祀部と私部を置いた。
夏五月癸酉朔丁丑(5月5日)、大別王と小黒吉士を遣わせて、百済国への宰(みこともち)とする。王の使者は命を受けて三韓に遣わされる際、宰と自称する。韓への宰としたのは、いにしえの典であろうか。いまは使者という。他もみな、これに倣う。大別王の出自は不明。
冬十一月庚午朔(11月1日)、百済の威徳王は大別王らの帰国に際し、以下のものを託して天皇に献上した。経論若干、律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工の六人である。天皇はこの六人を、難波の大別王の寺に住まわせた。
敏達天皇7年 春三月戊辰朔壬申(578年3月5日)、天皇は菟道皇女を伊勢の社祠に仕えさせた。しかし池辺皇子に犯され、事が露見したことにより解任された。
敏達天皇8年(579年)冬10月、新羅は枳叱政奈未を派遣し、調と仏像を贈った。
敏達天皇9年(580年)夏6月、新羅は安刀奈未と失消奈末を派遣して朝貢したが、天皇は受け取らず、それを返した。
敏達天皇10年(581年)春閏2月、蝦夷数千人が辺境を侵寇した。天皇はその首魁(大蝦夷)である綾糟たちを召して、こう詔した。
「大足彦忍代別天皇(景行天皇)の御代、お前たち蝦夷の中で殺すべき者は殺し、許すべきは許した。いま私は、その先例に従い、首謀者を誅殺しようと考えている」
それを聞いて綾糟たちはたいそう恐れ畏まり、泊瀬の川に入って三諸岳(三輪山)に向かい、水ですすぎ清めてこう宣誓した。
「我ら蝦夷は今後、子々孫々(生児八十綿連)まで、清潔明白な心で天皇にお仕えいたします。もし我らが誓いに背いたなら、天地の諸神及び天皇の御霊が、我らの子孫を絶滅なさるでしょう」
敏達天皇11年(582年)冬10月、新羅は安刀奈未と失消奈末を派遣して朝貢したが、天皇は受け取らず、それを返した。
挿絵:あんこ
文章:くさぶき
日本書紀「敏達天皇(2)」登場人物紹介
<敏達天皇>
第30代天皇。
<豊御食炊屋姫尊(推古天皇)>
額田部皇女。敏達天皇の皇后。第33代天皇。