今国の笛の音を聞いた入鹿の手から放れた十握の剣は竜となり、橘姫は兄を倒すためにその竜を追う。
[ 今国の反撃 ]
今国は不憫さが募り、せめて弔ってやろうと、お三輪の亡骸を背負う。すると下人たちが次々と走って、今国を取り巻いた。
「曲者め、逃しはせぬ」
今国はそれに見向きもせず、几帳の綾絹を悠々と引きちぎり、亡骸と共に自分の体をくるくる巻いてしっかりと結んだ。
「死人を取り置く我こそは、出来合いの坊主役よ。お前たちに十念(南無阿弥陀仏を十遍唱えること)を授けてやりたいところだが、一人ずつは面倒だ。いっぺんに片付けてやろう。ここで会ったが百年め。さあ、かかってこい」と仁王立つ。
「でかい口叩く野郎だ」と、下人たちが前後左右から十文字に、槍先を揃えて突き出した。それをひらりとかわす今国の早業に、槍はすっかり解される。ほぐれた片鎌を踏み落とすと、さらに今国は後ろからくりだされた突棒をしっかと掴んだ。
「後ろを狙うとは不敵なやつだ。そううまいこといかせるか」と、刺股も引ったくって打ち折る。
「手取りにせよ」と、下人たちがどっと迫る。今国はそれを手当たり次第、砂石のように投げ飛ばす。そして逃げゆくやつらを逃すまいと、御殿の奥深くへ進んでゆく。
[ 十握の剣 ]
銀燭を掲げる戸張は綾錦。紅葉の御殿の御簾を巻き上げ、妹姫の今様を遊覧しに入鹿大臣が現れた。
「女たちは姫の屋敷へ行き、用意ができれば始めるよう言ってこい。早う、早う」
落ち着きのない使いが度重なる高殿に、橘姫はいた。今夜こそ好機と、折烏帽子に水干の派手な白拍子衣装を身にまとい、舞の袖をひるがえす。
淡海は檜垣の影から弓矢をつがえて忍び寄り、入鹿の胸先目掛けて羽響き高く切り放つ。が、入鹿はその弓を苦もなく掴み、大声を上げる。
「宿直はおらぬか。疾く参れ」
「ここに」と弥藤次、
玄蕃は走りかかって打ちかかり、「心得た」と切り結ぶ。
橘姫が宝剣を振り袖に押し隠す間もなく、入鹿は阿修羅の形相で高殿目掛けて駆け上がる。それを阻み隔てようとする官女たちを投げ落とし、橘姫に飛びかかってひっ掴む。もう逃げられないと覚悟した橘姫は、宝剣を下に投げ捨てた。宝剣を受け取る淡海、それを阻止しようと弥藤次と玄蕃が打ち合い、打ち合い、挑み合う。
それを見ている橘姫も緊張で息をつき、自分の身も鷲に捕らわれた雛鳥同然でどうしようもなく、涙を流した。
「さぞお怒りのことでしょう。そのお怒りも、みんなこの私のふしだらから。お許しください兄上」と震え声で嘆き詫びる橘姫を、はったと蹴り飛ばす。
「鉛刀の如きなまくら刀を後生大事に隠しておいたのは、これを餌に天皇や鎌足親子をおびき寄せ、皆殺しにするための計略よ。本物の剣をそうやすやすと、あいつらなぞに奪われるものか」
「すると、あの剣は偽物と」
「おお、我が身につけているものこそ、十握の剣よ」
「それならば」と立ち寄る橘姫の肩先を、入鹿が素早く斬りつける。
そこへ、突如笛の音が流れてくる。その音に聞き入った入鹿は、酔ったかのように気力が萎えて、倒れ伏した。すると不思議な事に、剣は拳を離れ、たちまち竜の姿に变化した。雲にうねり、雨を誘って舞い下がり、松の梢を這い下り、庭のやり水に飛び入る。白波が立ち騒ぎ、どうどうと揺れ、溢れ出る様はすさまじい。
橘姫は手傷も忘れ、竜の姿をじっと見つめていた。
「疑心から竜にも蛇にも見えるけれど、あれこそまさしく十握の剣。たとえ本当に悪竜だったとして、なにを恐れることがあろう。我が夫のためならば、噛み殺されたとて厭わぬ。いま再び、元の宝剣の姿を顕したまえ」
橘姫は心で祈り、ひらりと飛び込んで水煙を立てる。逆巻く波に打ち付けられ、遥かに流れてゆく。流れくる枯れ枝に取り付く身体は浮草のように漂いながら、竜の間近に迫る。金竜は頭を振り返し、紅花の舌をちらつかせ、ひらめく背中の鱗を鳴らし、波間を分ける。橘姫も続いて分け入り、竜が潜れば姫も潜り、沈めば沈み、命の限りに追い回せば、また虚空に立ち上る。姫も岸に駆け上るが、叶わぬ思いに身を焦がし、おぼつかない足元で、雲の行方を目当てに竜を追ってゆく。
挿絵:あんこ
文章:くさぶき
妹背山婦女庭訓「御殿の場(7)」登場人物紹介
<金輪五郎今国(鱶七)>
鎌足の家臣。身分を偽って入鹿の御殿に潜り込む。
<蘇我入鹿>
帝たちを陥れ、謀反を起こす。
<橘姫>
入鹿の妹。淡海と恋仲で、夫婦になる約束を交わす。
<淡海>
鎌足の息子。