京は郊外、鳥羽殿へ幽閉された後白河法皇のもとへ、高倉帝から世を憂う文が届く。
城南之離宮
百行のなかでは、孝行をもって一番とする。聡明な王は孝をもって天下を治める、といわれている。
されば、唐堯は老い衰えた母を尊び、虞俊は頑迷な父を敬うと書物に書かれている。
高倉帝が、かの賢王聖主の先規に続かれたという叡慮のほどは、ご立派であった。
その頃、内裏より密かに鳥羽殿へ御書があった。
「かかる世には、雲居に跡をとどめても何ができましょうか
寛平の昔にならい、花山の古をも尋ねて、出家して遁れ、山林流浪の修行者とでもなってしまいたいと存じます」
と書かれておられたので、後白河法皇の御返事には、
「そのようなことはお思い召さるな。そのままおられることが、ひとつの頼みでもあるのです
行方をくらませなさった後は、何の頼みがあるでしょう
ただこの愚老がどうなるかの有様を見届けていただきたい」
とお書きになったところ、主上、この御返事を竜顔に押し当てて、いとど御涙に沈みなさった。
主君は舟、臣は水。
水はよく舟を浮かべ、また、舟を覆す。
保元、平治の頃は、入道相国、君を守護されたが、安元、治承の今は、また君を軽んじなさっている。
史書の文に違わない。
大宮大相国(藤原伊通)、三条内大臣(藤原公教)、葉室大納言(藤原光頼)、中山中納言(藤原顕時)までもが亡くなられた。
今は、古き人としては、藤原成頼、平親範のみである。この人々も、
「かかる世には、朝廷に仕え身を立て、大中納言を経ても何になろう」
とて、まだ働き盛りであった人々が出家し世を遁れ、民部卿入道親範は、大原の露に伴い、宰相入道成頼は、高野の霧に交わり、一心に後世の菩提を弔うほかは、何事もしないということであった。
昔も商山の雲に隠れ、頴川の月に心を澄ます人もいたので、これは博覧と清廉潔白であるが故に、世を遁れたのにちがいない。
なかでも、高野山におられる宰相入道成頼、かようのことなどを伝え聞いて、
「ああ、機敏にも世を遁れたものだな
かくて聞くも同じことではあるが、共に目の当たりにしたら、いかに心憂いことであろう
保元平治の乱をこそ、嘆かわしいと思ったが、世も末になると、このようなこともあるものだ
この後もなお、どのようなことが出てくるのだろうか
雲を分けても登り、山を隔てても入りたい」
とおっしゃった。げに心ある人の、跡をとどめるべき世とも思われない。
同二十三日、天台座主覚快法親王、しきりに御辞退されるので、前座主明雲大僧正が復位された。
入道相国は、このようにさんざん好き勝手に振舞われたが、御娘は中宮にてまします、また関白殿と申す方も婿であり、万事心やすく思われたのか、
「政務はただひたすら、主上の御計らいのままに」
とて、福原へ下られた。
前右大将宗盛卿は、急ぎ参内して、このことを奏上されたところ、主上は、
「法皇の譲りましましたる世ならばこそ。ただ早々に関白と相談して、宗盛がよきに計らえ」
とて、お聞き入れもなさらなかった。
法皇は城南の離宮にて、冬も半ばを過されたところ、野山の嵐の音のみ激しくて、寒庭の月の光が冴えている。庭には雪のみ降り積もれども、跡を踏みつけて訪れる人もなく、池には氷が閉じ重なって、群れていた鳥も見えない。
大寺の鐘の音は、遣愛寺の鐘を呼び起こし、西山の雪の色は、香炉峰の望みを想像させる。
夜霜に寒々としている砧の響き、かすかに御枕に伝わり、暁に氷をきしませる車の跡、遥か遠くから門前まで横たわっている。
巷を行き来する行人征馬の忙し気な様子、憂き世を渡る有様も、お思いになられて御不憫である。
「宮門を護る武士が昼夜護衛を勤めるが、先の世のいかなる契りにて、今このように縁を結ぶことになったのだろうか」
と、仰せられたのは恐れ多い。およそ物に触れ、事に従って、御心を痛められないことはない。
このようなご様子なので、かの折々の御遊覧、所々の御参詣、祝賀の素晴らしいことなどをお思い続けて、懐旧の御涙は抑えられない。年去り年来て、治承も4年になった。
挿絵:歳
文章:松
平家物語「城南之離宮」登場人物紹介
<後白河法皇>
第 77代の天皇 。名は雅仁,法名は行真。
平宗盛によって御所を包囲され、洛外の鳥羽殿へ幽閉される。
<高倉天皇>
第 80代の天皇 。名は憲仁。後白河天皇の第7皇子にあたる。
【注釈】
頴川…読み方は「えがわ」
遁れる…読み方は「のが-れる」
百行(ひゃっこう)…あらゆる行いのこと。
叡慮(えいりょ)…天子の考えや気持ちなど。
竜顔(りゅうがん)…天子の顔。
博覧…ひろく書物を読み、見聞して物事をよく知っていること。
砧(きぬた)…石の台。織物を載せて叩くことで、つやを出す。
懐旧…昔のことを懐かしく思い出すこと。
行人征馬(こうじんせいば)…旅人と旅の馬。また、道行く人馬。