藤原行隆は十年以上官職を与えられず、衣替えや食事にも事欠くほどであった。ある日、清盛公から使者がやって来る。


前関白松殿(基房)の侍に、江大夫判官遠成という者がいた。この者も平家のことを快く思っておらず、いまにも六波羅から押し寄せて逮捕されるであろうという評判であった。そのため、子息の江左衛門尉家成を連れて、どこへともなく落ちていった。
 稲荷山に登り、馬から降りて、親子が言い合う。
「東国の方へ降りて、伊豆国の流人である前右兵衛佐頼朝(源頼朝)を頼ろうと思う。しかしあの方も今は勅勘(天皇のお咎め)を受けている身。自分の身一つ思うままにならないでおられるようだ。日本に平家の荘園でないところがあろうか。どうせ逃げられないのなら、住み慣れた所を他人に見せるのも恥の多いこと。しかしここから帰って、六波羅から使者があれば、腹をかききって死ぬよりない」
 親子は川原坂の宿所へ引き返す。思ったとおり、六波羅からは源大夫判官季貞、摂津判官盛澄、そして武装した兵が三百余騎、川原坂の宿所へ押し寄せて、鬨をどっとつくった。
 江大夫判官は縁に出て、「これを御覧ください、各方、六波羅にこの様子をお伝え下さい」と言い残し館に火をかけ、父子ともに腹をかき切り、炎の中で焼け死んだ。
 そもそも、このように上も下も多く滅び損なわれるのはどういうわけか。近頃関白になられた二位中将基通と、前の関白基房の子・三位中将師家とが中納言の官を争われたためである。関白御一人がどのような目に遭ってもよかろうが、四十余人もの人々が災難に遭うことがあろうか。讃岐院への御追号、宇治の悪左府への贈官贈位はあったが、世間はなおも静まらない。このことだけに限らないようだ。
 入道相国の心に天魔が入れ替わって怒りを抑えかねているのではという噂だったので、また天下にどのような事が起こるのかと、宮中は上も下も恐れおおののいている。
 その頃、前左少弁行隆という、故中山中納言顕時卿の長男がいた。二条院の御代では弁官の一員として羽振りがよかったが、この十余年は官を停められ、夏冬の衣替えもできないほどである。朝夕の食事も思うようにならず、ほそぼそとした様子であった。
 しかし、太政入道清盛から「申したいことがある。ぜひお立ち寄りください」と宣われたので、行隆は「この十余年は何事にも関わらなかったというのに。きっと誰かが讒言したのだろう」とたいそう恐れ動揺した。北の方や公達もどんな目に遭うかと泣き悲しんでおられるうちに、西八条から使いがひっきりなしに来たので、仕方なく人に車を借りて、行隆は西八条を訪れた。
「あなたの父上は、私が大小問わず相談した人だったので、おろそかに思っていません。年来籠居しておられることも気の毒に思っていましたが、法皇が政務をとっておられる以上、私の力ではどうにも及びません。今は出仕なさい。官職のことなど取り計らいましょう。では、早くお帰りなさい」と言って奥へお入りになられた。
 行隆が無事に戻ったので、まるで死んだ人が生き返ったかのように、女房たちが集まってみな喜び泣きをした。
 太政入道は源大夫判官季貞を使いに出し、行隆が知行するはずの荘園の権利書などをたくさん送った。そして、さぞ困っているだろうと絹百疋、金百両に米を積んで送った。さらに出勤のためにと、雑色・牛飼・牛・車まで整えてつかわせる。
 行隆は、手の舞い足の踏みどころも知らぬほどに喜んだ。これは夢ではないかと驚いた。

 同11月17日、五位の蔵人に任ぜられ、もとの左少弁に戻られる。今年は51歳、今更のように活気づき若返った。だがそれは、ただ一時の栄華と見えた。


挿絵:あんこ
文章:くさぶき


平家物語「行隆之沙汰」登場人物紹介

<大江遠成>
前関白・藤原基房の家臣。
<藤原行隆>
権中納言・藤原顕時の長男。清盛のはからいにより、一夜にして莫大な富と地位を手にする。