福原へ退いた清盛が朝廷を恨んでいるという噂が流れ、真相を確かめるべく後白河法皇は静憲法印を遣わす。
入道相国清盛は小町殿に先立たれて心細く思われたのか、福原へ馳下り、門を閉じて篭っておられた。
同十一月七日の夜、戌の刻、大地がおびただしく揺れ、その揺れが長く続いたので陰陽頭の安倍泰親は急ぎ参内し、
「此度の地震は占いの指し示すところ、その慎みは軽くありません。陰陽道三経の中の根器経の説に、年で言えばこの年を出ず、月で言えばこの月を出ず、日で言えばこの日を出ずと見えます。甚だ火急のことと存じます」
と言ってはらはらと泣く。
取次の人も顔色を失い、法皇も驚かれる。
「けしからん泰親がこの泣きようだ。いったい何事が起こると言うのか」
若い公卿や殿上人はそう言って笑い合った。
しかし、この泰親は安倍晴明から五代の末裔であり、天文は奥義を極め、その易占は掌を指すが如し。一度も占いを外したことがないので『指すの神子』と呼ばれる人物である。雷が落ちかかっても、雷火のために狩衣の袖は焼けたが本人は無傷だった、ということもあった。上代にも末代にも滅多にない逸材であった。
同十四日、入道相国はこの頃福原におられたが、何を思ったのか突然数千騎を率いて都に上られると聞こえてきたので都中の人は身分の上下を問わず恐れおののいた。
「入道相国は朝廷をお恨みである」
何者が最初に言いだしたのか、そのような噂が広まった。
関白殿は内々にそれをお聞きになったのであろう、急ぎ参内された。
「此度の入道殿の上洛はひとえにこの基房を滅ぼすためのものであるとのこと。いったいどのような目に遭わされることか」
このように奏上なさると高倉帝は大いに驚かれて、
「そなたがそのような目に遭うことはまことに我が事のようにつらい」
と畏れ多くも涙を流される。
まことに、天下の政というものは天皇や摂関の計らいによるものであるはずなのにこれはどうしたことであろうか。天照大神や春日大明神はいったいどうお考えであろうか。
同十五日、入道相国が朝廷を恨み奉ることは明らかとのことであったので法皇は大いに驚かれ、故少納言入道信西の子、静憲法印を使者に立て、入道の元へ遣わすことにした。
「近年朝廷静かならずして、人の心も整わず、世間も落ち着かない様子であることに心を痛めているが、そなたがいれば、と万事頼みに思っているのに天下を静めるどころか騒々しい様子であまつさえ朝廷を恨んでいるなどと聞こえてくるとはいったい何事か」
と、法皇は静憲法印に言付けた。
静憲法印は西八条の邸へ向かった。朝から夕方まで待ったが音沙汰がなく、これは無益と判断して源大夫判官季貞を通じて勅定の趣旨を伝え、
「では失礼します」
と言って邸の外へ出ると、そのとき入道が
「法印を呼べ」
と言って出てこられた。
法印を呼び返して、
「やや、法印殿。そなたが申すことは僻事か。まず内大臣重盛が亡くなったこと、当家の運命を考えてもこの入道は涙を抑えながら日々を過ごしてきた。どうか察していただきたい。
保元以降は反乱反逆が続いて法皇様も心穏やかでいらっしゃらなかったところを、私はただ大方のところを執り行うだけであった。内大臣こそ、実際に手を下し身を砕いて度々の逆鱗を静めてきたのだ。その他にも臨時の大事や朝夕の政務など、まこと、内大臣ほどの功臣があろうか。
これをもって古のことを思うに、唐の太宗は功臣の魏徴に先立たれて悲しみのあまりに『昔の殷宗は夢の中で良臣を得、今の朕は目覚めて賢臣を失う』という碑文を自ら書いて、廟まで立ててお嘆きになった。
我が国でもつい最近あったことであるぞ。藤原顕頼民部卿が逝去した折、亡き鳥羽院は殊の外お嘆きになり、八幡行幸を延期なさり管弦の遊びもなさらなかった。
このように、総じて臣下の死を代々の帝はみなお嘆きになった。だからこそ、親よりも懐かしく子より睦まじいのは君臣の仲と申すのだ。
それなのに、法皇は内大臣の喪中に八幡へ行幸なさり、管弦の遊びも催された。お嘆きの色を一切お見せにならない。たとえ、私の悲しみを憐れんでくださらなくともどうして内大臣の忠心をお忘れになろうか。たとえ、内大臣の忠心をお忘れでも、どうして私の嘆きを憐れんでくださらない。父子共に軽んじられて面目を失った。これが一つ。
次に、越前国は子々孫々に渡って改変はないとお約束いただいていたのに内大臣の死後すぐに召し返されたのはいったい何の過失があってのことであろうか。これが一つ。
次に、中納言の欠員が出たときに二位中将がその地位を望んだので私も随分と執り成したが結局聞き入れていただけず関白の息子を選ばれたのはどういうことだ。たとえ私が筋違いのことを申していたとしても一度くらいは話をお聞きくださるべきだ。況や、家柄といい位階といい道理に背かぬことをお聞き入れくださらぬとは不本意な計らいである。これが一つ。
次に、新大納言成親卿以下が鹿ケ谷で陰謀を企てたのは全く私的な謀略ではなかった。法皇の許容があってのことである。
改めて申し上げるが、法皇は七代までは我が一門をお見捨てになるべきではない。にもかかわらず、私が七十になり余命いくばくもないこの間にもややもすれば滅ぼそうとのお計らい。言うまでもなく、子々孫々に渡って朝廷に召し使っていただけることはありそうもない。凡そ、老いて子を失うことは枯れ木に枝がないことも同じ。今は、程なき憂世に心を費やしても何ともできないのでどうにでもなれといった気持ちである」
と言って入道は立腹し、涙を流すので、法印は恐ろしくも、また哀れにも思って汗が水のように滴り落ちた。
このような時はいかなる人も一言も言葉を返せないものである。その上、法印自身も法皇の近臣であり鹿ケ谷の陰謀のことはまさしく見聞きしたことでもあるので、おまえもその一味だと今にも捕らえられるのではないかと思うと龍の髭を撫で虎の尾を踏む心地はしたが、法印もなかなかに恐ろしい人で、ちっとも騒がずに申し上げた。
「まことに度々のご奉公は浅からず、お恨みに思うのも無理はありません。
ただし、官位といい俸禄といい、御身にとっては悉く満足すべきものにございましょう。それは貴方様の功が莫大であることを法皇様も感じておられるということ。それを近臣が反乱を起こしそれを法皇様も許容なさっているなどと仰るのは謀臣の凶害にございます。耳に聞こえる人の噂を信じて実際に目で見たものを疑うのは世俗の常の弊害。小人の浮言を重んじて朝恩は異なるのに君主に背き奉るのは畏れ多いことです。
凡そ、天の御心とは蒼々として測り難いもの。叡慮もまた同じでございましょう。下のものが上に逆らうなど、それが人臣の礼にござりましょうか。そのことをよくよくお考えくださいませ。
貴方様の仰ることは法皇様にもお伝え申し上げます」
法印はそう申し上げて邸を出られたので、並み居る人々は
「なんと恐ろしい。入道があれほど怒り狂っていたのにちっとも恐れず返事をして立たれたことよ」
と法印を誉めぬ人はいなかった。
挿絵:ユカ
文章:水月
平家物語「法印問答」登場人物紹介
〈平清盛〉
入道相国と呼ばれる。平家の棟梁。
〈静憲法印〉
信西の子。法皇の使者として清盛邸へ赴く。
〈後白河法皇〉
第77代天皇。譲位してからは治天の君として君臨する。
〈安倍泰親〉
陰陽頭。安倍晴明の子孫。