別れ際に振袖に縫い付けた糸を辿り姫の居場所をつきとめた求馬。2人は互いの正体を知ってしまう。一方お三輪も求馬を追って御殿にたどり着く。


[姫戻り]
さて、恋をする身は辛いものだ。出ていくにも戻って入るにも人目を忍ぶ。
橘姫は草の露を踏み分けすごすご帰り、対の屋の障子にばらりと礫(つぶて)を打つ。
「そりゃ、お帰りの知らせぞ。」
と、局たちがめいめい庭に集まり降り、枝折戸(しおりど)を開いて姫をお入れする。
「お可哀想に、お可哀想に。御所のお庭の内さえも一度もお歩きなさらないのに、恋なればこそ裸足で歩いて行かれる。
さぞ朝露でお裾も濡れているでしょう。小袿(こうちぎ)にお召しかえしましょう。」
と立ち寄って
「あら、お振袖に付いているこの紅の糸は何でしょう。」
と手繰り寄せると、くるくると宮中の庭に引かれてきたのは、あの愛しい…
「やぁ、求馬(もとめ)様か。まぁ。」
はっと驚く姫よりも、騒ぎさざめく局たち。
「なんとまぁ、見事に引き寄せた。」
「七年物の恋人様か。ようこそお入りくださった。さぁさぁこちらへ。」
と局が求馬の手を取ると、求馬は
「いや、私はちょっと道を通りかかっただけだ。
 この苧環(おだまき)を拾い上げるとすぐに、やたらと引かれて来た者。何も存ぜぬ、お赦しを。」
と出て行こうとする。その向こうを立ち塞ぎ、
「えぇずるいなされよう。私らにご遠慮はない。内々のお話なら、どれ、お次の間へ行こう。」
と立っていく。
姫は言うべき言葉もなく俯いていると、思案の求馬に
「ふん、この御所の姫であるならば、聞くまでもなく入鹿の妹、橘殿。」
と言われてはっと胸に迫り、
「入鹿の妹と知られたら、まさかお情けはあるまいと包み隠した甲斐なくご存知のあなたこそ、藤原淡海様。」
と言う姫の口を、求馬は素早く袂でふさぐ。
「女ではあるが、敵方に我が名を知られたとあっては一大事。不憫だが助けにくい。」
「なるほどお道理、ごもっともです。
 生きているほど思いの種、お手にかかるのがせめてもの本望です。
 こういう内にもお姿やお顔を見ると未練が残ります。さぁさぁ、私を殺してください。」
と姫は刃を待って覚悟の合掌をする。
「心の真実は見えた。が、本当に夫婦になりたければ、一つの功を立てられよ。」
「一つの功を立てよ、とはどういうことでしょう。」
「あぁ、入鹿が盗み取ったものこそ三種の神器のその1つ、十握の御剣。
 奪え返して渡されたら、望み通り夫婦になろう。嫌ならば叶わぬ縁だ。」
「あぁどうしようもない。
 悪人ではあっても兄上の目を掠めるのは恩知らずになります。といってお望みを叶えなければ夫婦と思う義理が立ちません。
 恩にも恋は代えられず、恋にも恩は代えられぬ。2つの道に絡められたこの身は何の報いなのでしょうか。」
と声を立てずに泣いておられたが、やがて
「あぁそうです。親にもせよ兄にもせよ、我が恋人のためといい、第一は帝のためです。
 命にかけてしおおせましょう。」
「おぉでかされた。して、また知らせの合図はどうする。」
「今宵、管弦の遊びの舞にことよせ、宝剣をお渡ししましょう。
 笛や太鼓の音をしるべに、奥の亭まで忍んで来てください。」
「それまでは私はこの場所に、日が暮れるまでしばし待って居よう。きっと首尾よく。」
「分かりました。
 が、もし見つけられ、殺されたら、これが世のお顔の見納めです。たとえ死んでも夫婦だと仰ってくださいませ。」
「おぉ、運命拙く露見して、その場で死んだとしても、永遠に変わらぬ夫婦。」
「えぇ、かたじけない。うれしい。」
と抱きしめた鴛鴦(おしどり)の番のような2人は、約束の言葉を縁を結ぶ綱として、引き分かれて身を忍ばせた。

[迷い込むお三輪]
一方、迷ってはぐれた片鶉(うずら)のようなお三輪は、草の靡くのをしるべとして息をきって走る。
「えぇい、この苧環の糸めが切れくさったばっかりに途中からすっかり見失った。
 けれどもここより他に家はないし、おおかたこの内へ入ったのに違いない。
 えぇ、誰か来るといいのに。尋ねたいな。」
と見やる先から下女が被き布を目深にかぶって、しゃなしゃなと豆腐箱をさげて歩いて来る。
「もうし、もうし」
と呼びかけると、下女はお三輪を配達に来たものだと早合点し、
「おぉ、お台所を尋ねるのなら、そこをこちらへこう回って、そっちゃの方をあちらへ行き、
 あちらの方をそちらへ行き、右の方へ入って、左の方をまっすぐに、わき目もふらずにめったやたらにずっとお行きなさい。」
「いえいえ、私が尋ねるのは、お台所とやらではありません。
 年のころは23、4で色白にくっきりした顔立ちのよい男は参りませんでしたか。」
「おぉ、おぉおぉ、来たらしい来たらしい。
 それはお姫様の恋男らしいよ。三輪の里から後を追ってきたところを、何かお局たちが引っ捕らえ、
 無理矢理御寝所へぐっと押し込み、上から布団をかぶせかけ、かぶせかけて、
 あぁあぁ、宵の内に内輪のご祝言があるはずと、暮れぬ内から騒いでいる。
 えぇ、羨ましい。こっちまで内太ももがぴちぴちと、四月頃のはじけ豆のようにむずむずする。では私は豆腐のご用が急ぐので。」
と、喋りまくって出ていく。
「さぁさぁさぁ、とんでもないことができた。
 本当に本当に、油断も隙もあったもんじゃない。大胆にも人の男を盗みくさって。
 何よ。もっともらしく内祝言よ、あまりに馬鹿にしているじゃない。
 いいわ、その代わり、どこにいようと尋ね出し、求馬様と手を引いて、これ見よがしに帰ってしまうのが腹いせよ。」
とお三輪は行こうとしたが、
「いやいや、はしたない者だともしも愛想を尽かされたら。
 とは言っても、このまま見捨てて、これがどう帰られよう。えぇ、どうしよう。」
と気もそぞろで階段を上り、長廊下を歩く。


挿絵:あんこ
文章:やっち


妹背山婦女庭訓「御殿の場(4)」登場人物紹介

<求馬>
其原求馬。橘姫とお三輪から想いを寄せられる烏帽子屋だが、その正体は鎌足の息子の淡海であった。
<橘姫>
求馬に想いを寄せる女性。求馬には隠していたが入鹿の妹。
<お三輪>
求馬に想いを寄せる女性。杉酒屋の娘。