熊野に参詣し、父 入道相国(平清盛)の改心か、自身の命を縮めてでも一門の来世の苦しみの救いを願う平重盛。参詣の後、病にかかった重盛は父からの使いに対し、自身の思いを説く。


小松の大臣(平重盛)はこのような事などをお聞きになって、何事も心細く思われたのだろうか、その頃熊野に参詣なさることがあった。
本宮証誠殿の御前で、一晩中 神に申し上げられた事は、
「父の入道相国(平清盛)の様子を見ると、悪逆無道で、ともすると君(天皇家)を悩まし申し上げている。重盛は長子としてしきりに諌めるが、私が取るに足りない者であるために、父は私の諫言に従わない。その振る舞いを見ると、父一代の栄華でさえもなお危うい。まして子孫が続いて、親を顕彰し、後世に名を残す事は難しい。
そこで、重盛、不相応ながらに思うには、なまじ世間に交わって、世間に浮き沈みする事は全く良臣孝子の道ではない。名誉を捨て退き、今生での、名声、人望を投げ捨てて、来世の菩提を求めるのにこしたことはない。ただし果報の卑しい凡夫で、善悪の判断に迷っているために、なお出家の志を思うようにとげるわけにはいかない。
南無権現金剛童子、願わくは、子孫の繁栄が絶えず、朝廷にお仕えして立ち交わることができるなら、入道の悪心を和らげて、天下を安全にしてください。また栄華が父一代限りで、子孫が恥を受けるようになるのならば、重盛の命を縮めて来世の苦しみをお助けください。入道を改心させるか、私の命を縮めるか、二つのお願いをしてひたすら神のお助けをお願いする」
と、心を尽くしてお祈りなさっていると、灯籠の火のようなものが大臣のお身体から出て、ぱっと消えるようになくなってしまった。

人が大勢これを拝見していたけれども、恐れてこの事を言いださない。
また、熊野からお帰りになる時、岩田川をお渡りになったところ、嫡子権亮少将維盛(平維盛)以下の公達が浄衣の下に薄紫色の衣を着て、夏のことだから、なんとなく川の水でお遊びになった間に、浄衣が濡れて下の衣の色が透けて見えたのが、まるで喪服のように見えたので、筑後守貞能(平貞能)がこれを見て気にして、
「どういうものでしょうか。あのご浄衣がまことに不吉なようにお見えになります。お召し替えになるのがようございましょう」
と申したところ、大臣は、
「私の願いがもう成就したのだ。その浄衣はけっして着替えるべきではない」
といって、特別に岩田川から熊野へ、御礼の幣を奉る使いをお出しになった。人は怪訝に思ったが、その意味はわからない。ところがこの公達が、まもなく本当の喪服を着られたのは全く不思議であった。
熊野からお帰りになった後、何日もたたぬうちに大臣は病にかかられた。
熊野権現がもう願いを受け入れられたにちがいないと、治療もなさらない。快復のための祈祷も行われない。
その頃宋から、優れた名医が渡ってきて、我が国に滞在することがあった。
折から入道相国は、福原の別荘におられたが、越中守盛俊(平盛俊)を使者として小松殿へ言われたことは、
「病気がいよいよ酷いというふうに聞いている。それにまた、宋より優れた名医が渡って来ている。ちょうどよい。この者を召し寄せて、治療をおさせなさい」
と言ってやられたところ、小松殿は人手を借りて起き上がり、盛俊を御前へ召して、
「まず医療の事は、謹んで承りましたと申し上げよ。
しかしお前も聞け。
醍醐天皇は、あんなに賢王でいらっしゃったけれど、外国の人相見を都の内へお入れになったのを、末代に至るまで、賢王の御あやまち、我が国の恥であると思われた。まして重盛くらいの凡人が、外国の医師を、帝都へ入れる事は国の辱ではないか。
漢の高祖は、三尺の剣を提げて天下を治めたが、淮南の黥布を討った時、流れ矢に当たって傷をうけた。
后の呂太后が良医を呼んで診察させたところ、医者が言うには、『この傷は治せるだろう。ただし五十斤(約11kg)の金をくれれば治そう』と言う。
高祖が言われるには、『私に対する天の守護が強かった間は、多くの戦闘にあって傷をうけても、その痛みはなかった。運がもう尽きた。私の命は天のさだめ通りだ。たとえ扁鵲のような名医でも、なんの役に立とう。だから医者は断るが、そうするとまた、医療代を惜しむみたいだ』と、五十斤の金を医師に与えたままで、とうとう治療しなかった。
先人の言葉は耳に残って、今もなお納得させられる。
重盛は、かりそめにも公卿の列に入り、大臣の位に上っている。その運命を推し量ってみると、すべて天の心による。だからどうして、天の心を察せずに、愚かにも医療の手を借りたりしようか。
病気がもし定められた業によるものなら、医療を加えても、無益ではなかろうか。また現世かぎりの一時の災厄であるなら、療治を加えなくても、助かることができよう。
あの名医である耆婆の医術のかいもなく、釈迦は跋提河のほとりで入滅した。これはつまり定業による病は治らないことを示すためである。定業の病がそれでもなお医療によって治るのならば、どうして釈迦が入滅なさろうか。定業は治療できないことは明らかである。治す相手は仏の身であり、治療する医者は耆婆であっても、仏陀は亡くなられた。
重盛の身は仏の身ではあるまいし、名医といってもこれもまた耆婆に及ぶはずがない。
だから、たとえ宋の四部の医書(素問経、大素経、難経、明堂経)を参照して、百の治療を習得しているとしても、どうして衣食に依存する人間のけがれた身を救えよう。たとえ五経の医書(素問経、霊枢経、難経、金櫃要略、甲乙経)の説くところを詳しく知って、多くの病を治すとしても、どうして先世の業による病を治せようか。
もしあの宋の医術によって生き延びたとしたら、我が国に医道はないかのようだ。医術の効き目がないなら、その医者に会ってもしかたがない。
特に我が国の大臣たる身でありながら、外国からふらりと来た者に会うことは、一方では国の辱であり、一方では政道の衰退である。
たとえ重盛の命はなくなるとしても、どうして国の辱を心配する心を持たないでよかろうか。この事を父上に申し上げよ」
と言われた。
盛俊は福原に帰り参って、この事を泣く泣く申したところ、入道相国は、
「こんなに国の辱を案ずる大臣は、昔にもまだ聞いたことがない。まして末代にあろうとも思えない。日本にふさわしくない大臣だから、どんなにしても今度死ぬに違いない」
といって、泣く泣く急いで上京された。
同年七月二十八日、小松殿は出家なさった。法名は浄蓮とおつけになる。
やがて八月一日、臨終正念のうちに、とうとう亡くなられた。御歳は四十三。盛りの年頃と見えたのに、痛ましいことである。
入道相国が、あんなに横暴な事をなさっても、この人が直しなだめられたからこそ世の中も無事であったのだが、今後は天下にどんな事が出てくるかもしれないといって、京中の人々は、身分の上下に関わらず嘆きあった。
さきの右大将宗盛卿(平宗盛)方の人々は、「これで政権は今すぐ大将の宗盛卿に移るに違いない」と喜んだ。
人の親が子を思う気持ちは、通例、愚かな子が先立つ時でさえ悲しいものだ。ましてこの人は平家の棟梁であり、当代の賢人でいらっしゃったから、親子としての別れ、また平家一門の衰え、いずれもいくら悲しんでも尽きない。
だから世間では良臣を失ったことを嘆き、平家では武家の才能がすたれてしまうのを悲しむ。そもそもこの大臣は、人柄が端正で、忠心があり、才芸がすぐれて、雄弁と徳業を兼ね備えておられた。


挿絵:ユカ
文章:ねぴ


「医師問答」登場人物紹介

<小松の大臣(平重盛)>
平清盛の嫡男。六波羅小松第に居を構えたことから小松の大臣、小松殿とも呼ばれる。
<入道相国(平清盛)>
平家の棟梁。
<権亮少将維盛(平維盛)>
平重盛の嫡男。
<筑後守貞能(平貞能)>
清盛、重盛を主人とする平氏の有力家人。
<越中守盛俊(平盛俊)>
清盛を主人とする平氏の有力家人。
<右大将宗盛卿(平宗盛)>
平清盛の三男。

語釈
このような事…前話の「つじかぜ」にあった神祇官で行われた御占の内容の事か。
熊野…熊野神社のこと。
証誠殿…熊野本宮の社殿で証誠大菩薩が祭られている。
岩田川…現在の和歌山県富田川。