帝位を謳歌する蘇我入鹿の三笠山の御殿に、藤原鎌足の使者・鱶七があらわれる。


「もうし、ごめんなすって」とダミ声。頭の中剃りを深く入れ、三味線のバチの先のような撥鬢頭の大男が、御殿間近くにぼっかぼっかと大股歩きでやってきた。粗末な木綿の長裃(ながかみしも)に使われた糊のごとく強張って立ちはだかる。
「ええ、入鹿どんはここじゃな。中にいるなら会わしてくだんぜ」と、無愛想で無遠慮な言葉。宮越と荒巻は目くじらを立て「何者か。君主の御前も憚らぬ馬鹿者め。立ち去れ」と叱りつける。
「オラは難波の浦の鱶七という網引(漁師)でごんす。いつ頃からかこっちに引っ越してごんしたお公家殿、カマキリのダイシンから雇われてきた使いでごんす」と言うのを遥かに見下ろす入鹿。
「はて心得ぬ。その鎌足めは首陽山の故事に学んで姿を隠したと聞いたが、難波の浦にいたとは。普天の下、率土の浜、空の下も地の果てまでも王地でないところなど無いのだから、今日まで飢えず健固にあるのは我の恵みではないか。それを思うのならばすぐにでも参って恩を謝すべきところを、使いを立てるなど無礼である」
「そんなことオラの知ったことかいの。見たところよっぽど短気な人じゃわい。しかし喧嘩はこなんのように、気概でするのが徳というものじゃ。鎌どんも一旦は張り合ってみようと思われたそうじゃが、かなわぬから、どうぞオラに挨拶してくれと言っておった。それはそれはたいそうな弱りようだわい。大概なことなら、もう堪忍してやらんせ。懇意な仲は得てして無遠慮になりがちというもの。これ、仲直りの印じゃというて、酒一升を遣わされた」
 と、鱶七の刀の下げ緒には、ぶらぶらと徳利が結ばれている。それを見た二人は、眉をひそめて身構える。
「まだ日本に帰らぬ兵器が唐土にあると聞く。飛び道具の類やもしれぬ。なんにせよ、怪しいものを持っている。皆、油断するな」
「ええ、とんでもない。とっくりと見やんせ。酒じゃ酒じゃ。そこのお手大衆、はようそれを進ぜさんせ」

「いいや、善悪知れぬ鎌足からの酒であれば、毒薬が仕込んであるかもしれぬ。奉ることはまかりならん」
「やけにしつこく勘ぐりなさる。どれ、オラが毒味をしてやろう。茶碗はないかえ。そんなら許さんせ、直飲みじゃ」と言って、徳利の口から自分の口へ。「よい酒じゃのになあ。これを飲まぬということがあるか」と振ってみて、
「やあ、しまった。みな飲んでしもうた。ひょんなことしてしもうた。いやこれ、もしも鎌どんに会われたら、オラが飲んだとは言わず、よう届いたと礼を言って下さんせ」
 と我武者羅なようでいて、正直者である。鱶七は真面目になって当惑顔で「まだなにか言付かって来たが、落としはせぬか」と懐を探し、「おっ、あるわ。さあこれを見やさんせ」と一通の書状を渡す。弥藤次がそれを開くと
「なになに。ーーー我、不肖によりしばらく心を惑わしたが、いま一天四海が御手の内に落ちたということは、まさしく天が譲り給う万乗の御位。入鹿公に背くことは、天に背くのと同じこと。先非を悔いて、ここに降参を乞うものなり。いまより臣下に属す証として、君主の齢を東方朔にあやかり、この桃花酒をもって御寿を祝し奉る。内大臣藤原鎌足、謹んで申す」と読み上げる。
「ははははは、なまくら者の鎌足め。臣下となろうなど、なんと白々しい嘘を」
「なんじゃ、鎌どんを嘘つきとは。なんぞ確かな証拠がごんすか」
「小賢しい。証拠だと。やつの腹の中を言うて聞かそう」
「どれ、聞きましょう」
「まず、この入鹿を東方朔にたとえたのが野心の証拠」
「そりゃまたどうして」
「昔、漢の武帝の世に、東方朔というものがいた。三千年に一度実のなる桃を三度盗んで食ったため、九千年の寿命を持つ。桃に百の縁をかたどり、百敷百官を手に入れたこの入鹿を盗人と言わんばかりの底巧みではないか。忌々しい」
「いやいやそいつぁ無理がある」
「なんだ蛆虫め。なにを知ってか小癪な」
「いやなにも知りはせんが。オラは代理で来たよってに、一言いわしてもろうたのじゃ」
「鎌足の代わりであるなら、これも代わりに受けてみよ」
 と、傍にある島台を眉間に勢いよく打ち付ける。台は微塵になって飛び散ったが、鱶七はびくともしない。
「いい加減に駄々をこねなさんな。その厄払いの文句にある東方朔にたとえたからというて、業を煮やすのか。寿命にあやからんせと書いておこしゃったのであって、盗人とは書いてはないじゃろうに。それなのに、いろいろと講釈をつけて盗人詮索。知った同士ではわだかまりがないとやらで、盗人の覚えがあるとて今の投げ打ち。この人は正直なお人じゃと世間の噂だが、見ると聞くとでは大違い。そんな盗人と鎌どんを仲良くなど、オラがさすまい、見た目に合わぬことをなさいますの。それとも覚えがごんすか。ほおそうかいの」
 と、無学なままに述べ立てても、理屈は理屈。「どうでごわる」とやり込めれば、邪智の入鹿も苦笑い。
「うまく言って逸らしたな。殊勝なやつだ。その褒美として、鎌足が本心か虚偽かを確かめるまで、お前は人質だ。もはや籠の鳥も同然。帰ることはないと思え。玄蕃、弥藤次、萩殿で天盃をめぐらせるとしよう。来い」と入鹿は引き連れて、帳台の奥深くに入ってしまった。


挿絵:歳
文章:くさぶき


妹背山婦女庭訓「御殿の場(2)」登場人物紹介

<蘇我入鹿>
天智帝の臣下であったが、謀により帝位を名乗る。
<玄蕃・弥藤次>
蘇我入鹿の臣下。
<鱶七>
中臣鎌足の使者。