俊寛は罪を許されず、鬼界が島にて独り残されていた。そこへ有王が忍んでやってくる。僧都は彼に身内や妻子のことを尋ねるが、、、


僧都死去
(僧都:そうず)
僧都は現実にいるのだと思い定めて、
「そもそも、去年少将や判官入道の迎えにも、こちらには文という文もない。
 今、お前の知らせにも身内からの音信がないのは、私のことを何とも言わなかったのか」
有王、涙にむせびうつ伏して、しばしは物も申さない。ややあって起き上がり、涙を抑えて申したことには、
「貴方様が西八条へお出かけなさったところ、すぐに追捕の役人が参って、御家の人々を搦め取り、御謀反の次第を尋ねて、殺めてしまいました。
北の方は幼き人をお隠しかねなさいまして、鞍馬の奥に忍んでいらっしゃいましたが、この私のみが、時々参ってお仕えしておりました。
いずれもお嘆きにならないことはございませんでしたが、幼き人はあまりに恋しがられまして、参るごとに、
『有王よ、鬼界が島とかへ私を具して参れ』
と、むずかられましたが、去年の2月に、天然痘と申す病でお亡くなりになりました。
北の方は、そのお嘆きと申し、貴方様の御事と申し、一方ならぬ御思いに沈まれて、日につれ衰弱なさっておられましたが、同年3月2日、ついに亡くなられました。
今は姫君ばかり、奈良の叔母様の御元に、渡られてございます。
ここに御文をいただいて参りました」
といって、取り出して差し上げる。開けて御覧になると、有王が申すに違わず書かれてあった。最後には、
「なぜ3人流された人のうち、2人は召し返されてございますのに、今も御上京なさらないのですか。
あはれ身分の高きも低きも、女の身ばかり心憂くものはありません。
男の身でございましたら、渡られたそちらの島へも、どうして参らぬことがございましょうか。この有王を御供にて、急ぎ御上京なさいませ」
と書かれてあった。
僧都はこの文を顔に押し当てて、しばしは物もおっしゃられない。ややあって、
「これを見よ有王。この子がしたためた文の書き様の頼りなさよ。お前を供に、急ぎ上京してくれと書いてあることが恨めしい。
心のままに動ける俊寛の身ならば、なぜにこの島で3年の春秋を送るのであろうか。
今年は12歳になると思うに、これ程頼りなくては、人と添い慕い、宮仕えもして、その身を支えることができようか」
といって、泣かれたが、人の親の心は闇ではないにしても、子を思う道に迷う様子も思い知らされた。
「この島へ流されて後は、暦もなければ、月日の変わりゆくことも分からない。
ただ自ずから花が散り、葉の落ちるのを見て、春秋を知り、蝉の声が麦秋を送れば、夏と思い、雪の積もるを冬と知る。
白月、黒月の変わりゆくを見て、30日を判断し、指を折って数えれば、今年は六つになると思っていた幼い子も、早くに先立ってしまったのだな。
西八条へ出頭した時、この子が自分も行きたいと慕ったのを、すぐに帰るからなとなだめておいたのが、今のように思い出される。
それを最後と分かっていたなら、もうしばらくでもなぜ見ておかなかったのだろう。
親となり子となり、夫婦の縁を結ぶも、みなこの世一つに限らぬ契りなのだ。なぜそれならば、妻子たちが左様に先立ったことを、今まで夢幻にも知らなかったのか。
人目も恥じず、どうにかして命をつなぎとめようと思ってきたのも、これらの者と今一度会いたいと思うためである。
姫のことばかりこそ心苦しいが、生きているならば、嘆きながらも過ごせるだろう。
そう長らえて、お前に憂き目を見せるのも我が身ながら冷淡であろう」
といって、自らの食事をも断ち、一途に弥陀の名号を唱えて、臨終正念ができるよう祈られた。
有王が渡ってから23日目に、その庵の内にて、遂に生涯を終えられた。
年は三十七ということであった。有王は遺体に取り付き、天に仰ぎ地に伏して、泣き悲しめども甲斐はない。
心の行くまで泣き尽くして、
「このまま私もあの世へ御供を仕るべきですが、この世には姫君がいらっしゃるばかりで、後世を弔い申し上げる人もございません。
しばし生き長らえて御菩提をお弔い申しましょう」
といって、臥所を改めず、庵を切り落としてかけ、松の枯枝、蘆の枯葉を取り集めて覆い、藻塩の煙となし奉り、荼毘が終わったので白骨を拾い、首にかけ、また商人船の便船で九国の地へ着いた。

そこから急ぎ上京して、僧都の御娘のおられる所に参って、ありし日の様子、始まりから詳しく申す。
「かえって御文を御覧になって、ますます御嘆きは募り、ひどくなられました。件の島には、硯も紙もございませんので、御返事も書けません。
お思いになっておられた御心の内、そのまま空しく終わってしまいました。
今は未来永劫を過ごし、前世来世に渡る長い歳月を隔てましても、どうして御声をお聞きし、御姿をも拝見申し上げられましょうか」
と申したので、姫君は倒れ伏して、声も惜しまず泣かれた。
そのまま十二の年に尼となり、奈良の法華寺で修行に勤めて、父母の後世を弔われたのは誠にあわれなことである。
有王は俊寛僧都の遺骨を首にかけ、高野へ登り、奥の院に納めつつ、蓮華谷にて法師になり、諸国七道を修行して、主の後世を弔った。
このように人々の思いや嘆きの積もった平家の末は、恐ろしいことである。
辻風
同年の5月12日牛の刻、すなわち正午ごろ、京中には辻風が激しく吹いて、家屋が多く倒壊する。
風は中御門京極より起こって、南西の方へ吹いて行くが、棟門平門を吹きぬいて、4町、5町、10町も吹き飛ばし、桁、長押、柱などは、空中に散在する。
桧皮、葺板の類は、冬の木の葉が風に乱れ飛ぶが如くある。激しく鳴りどよめく音、かの地獄の業風であっても、これ以上ではなかろうと思われた。
ただ家屋が破損するのみならず、命を失う人も多い。牛馬の類、数に限りなく地面などに打ち殺される。
これは只事ではない。
御占を行うべしとて、神祇官において御占が実行された。
「今から100日の間に、禄を重んじる大臣は謹慎。
とりわけ天下の大事件、並びに、仏法、王法、ともに傾いて、兵乱が連続するだろう」
と、神祇官、陰陽寮、ともに占い申した。


挿絵:あんこ
文章:松


「僧都死去、つじかぜ」登場人物紹介

<俊寛(俊寛僧都)>
平安末期の真言宗の僧。文中の僧都(そうず)は俊寛を指す。後白河上皇に仕えていた。鹿ヶ谷にて平家討伐の謀議が原因で島流しに処せられた。
<有王>
平安末期の人物。俊寛の侍童で、大変可愛がられていた。鬼界が島にて師の最期をみとった。ちなみに名は「ありおう」と読む。

【注釈】
桧……檜の俗語。桧も同様に「ひのき」と読む。
臥所……読みは「ふしど」で、寝床の意が大部分。
麦秋……読みは「ばくしゅう、むぎあき」で、麦を刈り取る季節。初夏。
臨終正念……読みは「りんじゅうしょうねん」で、臨終に際して一心に仏、特に阿弥陀仏を念ずること。
蘆……植物のアシのこと。読みも「あし」だが「よし」でも可。アシを指す漢字には「葦、葭」もある。
棟門……読みは「むなもん、みねもん」
公家や武家の邸宅、寺院の塔頭(たっちゅう)に用いられた屋根付きの門のこと。塔頭は祖師や高僧の徳を慕って境内に建てられた小院、または寺の僧侶や家族の住処。
平門……読みは「ひらもん、ひらかど」で、棟の低い平たい屋根をのせた門。棟門とは屋根の形で区別する(棟門は切妻造りで平入り屋根)。