真夜中の森で求馬は橘姫に追いついた。橘姫が思い人に恨みつらみを述べていると、お三輪も駆けつけて……
道行恋の苧環[おだまき]
天の岩戸隠れし神様は、誰とねねして常闇の世になさったのやら。
毎晩通っては、また帰る時の道も狭く、気も焦り、それも何故恋故に、やつれた姿は恥ずかしいと面を隠す薄絹に包めど香り立つ橘姫。
思ってくれぬ人を思い侘び、心に思う限り口説けども、色の変わらぬ松の下紅葉、つれぬ男に焦がれて絶えん玉の緒もあなた故ならば捨て草のようにこの命も。
しばし憩う芝村で身分の賤しい男が置き手拭いで、忍び忍びの密会の妻、晩にいらっしゃったらナコレ、のんやほんにさ、家の裏手の柿の木の、枝越えて二木が連なるように深い契りの言の葉は、それも恋仲、ここはまた箸中村よ。
一森の長者が跡と名に響く、窯が口をも通り過ぎて歩むにも、暗い竹の茂る中を分け行けば、葉ごとの露がこぼれ落ち、雉は羽音を立ててほろほろと鳴き声がする。我が身に思い比べて、心細く野に立ちつくす。
にくや、案山子におどされる我が身にまた怖じて、はっとして立ちゆく袖押す風につれて、ちりちり散るや、柳本を流れる水に裾濡れて、物思へよというのか帯解の里、その名も羨ましい。
私は、ついに一度の情けさえなく、泣いて身上の不幸を知る涙雨。
布留の社の御灯(ごとう)の影か、桜の木の間にちらちらちらと見えたり隠れたり、帰り道の姫の後を求馬が慕い来て、互いにはたと行き合いの星の光に顔と顔、
「ヤア恋人か。何故に。ここまで後を追うのは、もしや閨の契りをも、叶えてやろうとのお心か」(閨:ねや)
と、胸の内には言えど、言葉には出せず、几帳のように袖で顔を覆い隠す。
「成程切なる志、おろそかに思うまい。けれども、それほど焦れる恋路でありながら昼に来ないのはどうしてか。
鳥羽玉の夜ばかりに通うのは、すごく不審だ。
名と住処を聞いた上ではこなたより、二世の固めは願う事。明かしてください」
とひたすらに問われて、
「私は実は恥ずかしい身の上、漏れては辛い身の上。
語るにもつらいので葛城の峰の白雲のようにあるかどうかも定かでない賤の女と思って、
深い疑いの雲を晴らし私の思いも晴らしてくだされば、どんな仰せも背くまい。
たとえ命が草葉の露霜と消えても、なんの厭いもしない。
これ程思うに無慈悲な、打ち解けぬあなたのお心は、あんまり結ぶの神様を祈り過ぎた咎めでしょうか。
つれない君よ」
と、恨み侘び、思い乱れる薄の影。それと見るや否や、お三輪は走り寄り、中を隔てて立ち柳、立ち退く求馬の袂を引きとどめ、
「エエ聞き捨てなりません求馬様。ソリャ移り気よ。好色な。
そもそも二人の馴れ初めは初めて会った三輪の夜、
木の葉越しに見えた月のようにきれいな顔は、お公家さんやら侍さんやら知れぬ姿であったものの、
すっきりと一際目立つ、よい男。
ほかの女子は禁制と、抱きしめ合った肌と肌。
そんな持ち主ある人を大胆なこと、断りなしに惚れるとは。
どんな本にもありゃしない。女庭訓、躾方をよう見なしゃんせ。エ、嗜みなされ女中さん」
「イヤ、あなたとてたらちねの許せし仲でもないからは、恋はしがちよ、我が殿御」
(たらちね:垂乳根。意味は母。また、母にかかる枕詞)
「イヤわたしの」
「イヤわたしのよ」
と、共に求馬に縋りながら手を取って。
園に色よく咲く草時は、男女になぞらえ言えば、言われるものか。
梅は武士、桜は公家よ。山吹は傾城、杜若は女房よ。
色はどちらも、よくもまあ似たことよ。
菖蒲は妾、牡丹は奥方よ。桐は御守殿女中、姫百合は姫盛りと可愛がられて撫子に、ナルゾエ、ナルゾエ。
なるとならずと奈良坂の、同様に嫉妬した女2人が睨めば睨む萩と萩、その間にもまれる男郎花。
離すものかと縋りつき、こなたが引けば、あなたが止め、恋の柵、蔦葛。
付きまとわれて、くるくるくる、廻るや小車のように3人は。
小車の花より白んできた空一面に横雲がたなびき、ありありと見えるようになった三岳山もほど近く、夜明けを告ぐ鐘の音が鳴ると驚く姫。
帰るところは何処かと、求馬が機転を利かせ、振袖の端に縫って取り交わす縁の苧環を姫に付ける。
いとしさのあまり、お三輪も嫉妬の針、男の裾につけたがそうとも知らず、印の糸筋を慕い、慕って。
挿絵:ユカ
文章:松(まつ)
妹背山婦女庭訓「お三輪と姫との恋争い(後)」登場人物紹介
<橘姫>
入鹿の妹。夜な夜な求馬の元へ通う。
<お三輪>
三輪山のふもとで営む杉酒屋の娘さん。求馬を慕う。
<求馬>
烏帽子折職人。橘姫とお三輪から慕われ、揺れている。
【注釈】
苧環:麻糸を中は空洞のまま玉の形にしたもの。説明がむつかしい。
芝村:現在の奈良県桜井市大字芝。
置き手拭い:手拭を折り畳み、頭に載せる格好。
箸中村:現在の桜井市大字箸中。
芝村の北方にあり、鎌足が登場する他作品でも柳本(天理市柳本町)や帯解(奈良市今市町)と共に織り込まれている。
閨:寝室。または男女の交わり(閨事とも)
二世の固め:現世、そして来世までも添おうという夫婦の約束。
女庭訓・躾方:おんなていきん。しつけかた。女子の教訓書。
御守殿女中:御殿女中のこと。江戸は専ら江戸城か。
撫子:愛児や大事に慕う女性をたとえた「撫でし子」の意。
この回では三輪山に縁のある三輪山伝説が物語を彩る要素として扱われている。
(三輪山伝説:古事記に見える三輪山の神婚説話)
冒頭の橘姫が夜な夜な求馬のもとへ通うシーンは、謎の男が活玉依姫(いくたまよりびめ)を夜毎訪ねる場面から。求馬、橘姫、お三輪が苧環を袖に付けるシーンも説話が下地になっており、趣向ある演出といえる。