井戸替えの後の酒盛りの最中、新参者の烏帽子屋こと其原求馬が帰ってきた。一方、入鹿は行方をくらませた鎌足の息子、淡海に懸賞金をかけていた。
「隣家におります其原求馬でございます。お屋敷方の用事につき未明より出かけており、ただいま帰宿仕りました。後室様にはいよいよご機嫌麗しゅう。それでは後ほどゆるりとお目にかかりましょう」
門口より腰をかがめてそう言い、其原求馬が自分の家へ入ろうとするのを皆々が
「ああこれこれこれ、まあお待ちなさい。今日はこれ、ここの井戸替えにござる。借家の者は皆集まっているのにおまえさんだけが来ずにいて付き合いが済むもんかい。俺らの面目を潰す気かい」
と難癖をつけてくるので、求馬は驚いて上がり口に両手をつき、
「これはこれは。お顔を見れば皆隣近所のお方々。この井戸替えのお手伝いのことは私は存じませんでした。と申しますのも私は不案内にも以前よりのしきたりを存じませんで、数々のご無礼、平にご容赦くだされ」
そう言って畳に額を擦り付けた。
「これこれ、また堅苦しいことをお言いになって。はて勝手を知らなかったのならば仕方がない。わかってくれたならそれで済むことだ。こっちもひとしきり言った後にはもういざこざはないわいの。この土左衛門が全て呑み込んだ、呑み込んだ」
「それならば、あなた様よりこのように教えていただいたからにはこのいざこざについては御遺恨はござりませぬか」
「さァもう良い。言うな。さておいらはよほど酔うている。これからはいつもの騒ぎじゃ。このままでは調子が合わいで面白くない。烏帽子屋殿もこの茶碗でキュッとおやりなさい」
「ハハかたじけのうございますが、私は一滴も飲めませぬ」
「おっとそしたら好きになさい。さァこれからが騒ぎの趣向にござる。この土左衛門に烏帽子屋殿、五州兵衛に丁稚の子太郎、しめて四人の大踊りに、三味線、太鼓は野平と藤六じゃ。よいかよいか、求馬さんも合点か」
「なんと。私にもその踊りを?」
「そりゃおまえさんはこの借家での新参者、なおさら踊らにゃならぬわい。
よし音頭も俺が二役じゃ。
ヤァ千代の始めのひと踊り、まずは松坂越えたえ、松坂越えたやつさ、踊りはありやありやハッハヨイヤサ。烏帽子屋殿はもじもじと手持ち無沙汰に萎烏帽子を揉み揉みヤットサ。ここの娘の柳腰に心惹かれて萎烏帽子が引き立て烏帽子になったヤットサ。さぁ風折烏帽子の風じゃないが雰囲気を見すまして、帆かけ烏帽子のごとく帆を上げて帰ってしまわれたヤットサ」
盛り上がっていると、家主のもぎ兵衛が息急き切ってやってきた。
「いかにいつもの祝いでもあんまりうるさすぎる」
などと門口から声高にわめいてはいるけれど、皆は何のそのと耳にも入れずヤットサソレソレヤットサと相変わらず騒いでいる。
これにはもぎ兵衛もかなわず、叱る言葉も段々と拍子づき、
「ヤットサこの家主を袖にして、わしに酒を呑めとも言わずおのれらばかり呑み食らい、近所迷惑も考えぬ大騒ぎヤットサ。これほど言っても聞き入れにゃ、出て行ってもらうが合点か」
「おォさて合点じゃ。これを来て見てみなさいよ。よしお家主あとの音頭は任せた」
そう言って、土左衛門達酔っ払いは機嫌良く踊りながらそれぞれ帰っていく。
家主は後にぽつんと残され、
「ああどうしようもないやつらだ。とうとう俺まで夢中にしやがった。婆様よ内におられるか。会いたい」
中へ向かってそう呼びかけると、
「おおこれはまあお家主様。やい子太郎め、この方がおいでなされたらなぜ私に知らせぬ」
「なァに仰ってんです。あのお家主様も今まで同じように踊ってらっしゃいましたよ」
「またずけずけと何言ってんだい。さあさあ言ってくださいませ。なんぞ御用でございますか」
「おお用とも用とも大事の用。さるお侍から頼まれたが、入鹿様の言いつけで、鎌足という男の息子の淡海が方々を流浪しているそうだが、それを見つけ出したら大金をくれるとさ。とにかくまあこちらへいらっしゃい。とっくりと話して聞かせましょう。さァ早く早く」
「はいはいはい、そしたらそちらへ参りましょう。ヤイヤイ子太郎よ、さァ忙しくなってきた。もう日が暮れたそうな。火を消して店を開けい、用心に気を付けい。またうちの娘は寺子屋から戻りが遅い。ソレ酒買いが来たら叩き出せ。盗人が来たら酒を計ってやりな」
と、気の急くままに間違いだらけにあべこべな指示をして、家主と連れ立って出て行った。
挿絵:ユカ
文章:水月
妹背山婦女庭訓「井戸替えの場(1)」登場人物紹介
<其原求馬(そのはらもとめ)>
借家の新参者。通称、烏帽子屋殿。その正体は実は。
<土左衛門>
借家連中の一人。
<もぎ兵衛>
借家の家主。